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観音寺(かけかんのんじ)
観音寺墓地参道の入口を左手に見て、程無く目指す「かけの観音」の本堂が突き当りに現れます。(道案内JKの写真参照、ここをクリック)
観音寺裏参道の階段が現れます(道案内L〜Qの写真参照、ここをクリック)。これを登って行きますと道案内Kの写真の地点で表参道と合流します。
観音寺」と題するパンフレットの記事中から「
観音寺の由来縁起」を原文のままで引用して紹介させていただきます。なお、このパンフレットでは、「かけ」を表す漢字として「
」と「
」の両方が使用されていますので、原文に従って転記しました。
観音大士は往昔、二条天皇の御宇、源義朝卿、平治の乱、平治元年十二月下旬西暦一一五九年今から約八百二十年前に敗れ、東国に落ちる途すがら、義朝卿の従者、斉藤別当実盛、鎌田兵衛政清、右兵衛佐頼朝、中宮大府之進朝長、新宮重郎、平賀四郎義宣、佐藤式部太夫重成、渋谷金王丸、鷲津源光、陸奥六郎義隆、等三十余名、其の中に義朝卿の長男頼朝は十三才で初陣であった。
観音寺の由来縁起」の冒頭に書かれた源義朝卿は、平安時代末期の保安4年(1123)に当時の源氏の棟梁であった源為義の長男として京都で生まれました。幼年期を京都で過ごしましたが、少年期を迎える頃には源氏の根拠地である東国へ下り、長じては上総氏や三浦氏・大庭氏などの在地豪族を傘下に収めて、関東南部一円を支配し強大な勢力を誇りました。再上洛をした後の仁平3年(1153)に従5位下の位階を得て下野守に任ぜられ、久寿元年(1154)には父の為義が政治的に失脚した後を受けて源氏の棟梁の立場を得ました。保元元年(1156)に、いわゆる「保元の乱」が勃発し、父の為義は崇徳上皇側に属しますが、義朝は後白河天皇側へ与して戦功を挙げました。しかしながら、父や弟(源為朝)を自らの手で処刑させられる破目となり、戦後の論功行賞でも左馬頭に任じられたのみで、ライバルの平清盛が播磨守の地位を得たのと比較して不遇でした。保元の乱から3年後の平治元年(1159)になると、清盛が熊野詣に出掛けている留守中を狙い義朝は清盛や藤原信西に不満を持っていた藤原信頼と結託しクーデターを起こしました。これが歴史上「平治の乱」と呼ばれている戦乱です。義朝勢は白河院の御所であった三条殿に放火して白河上皇を拉致し、内裏内に移して二条天皇と共に軟禁しました。藤原信西は奈良へ逃亡を図りますが、途中で捕らえられ殺されました。しかし機敏な清盛は早急に都へ戻って政治・軍事両面の工作を行い、二条天皇を自らの六波羅邸へ招き、白河上皇は仁和寺へと脱出させます。この結果、義朝は朝敵の汚名を蒙る事となり、平重盛が率いる平家の大軍(官軍)が義朝勢を襲います。内裏周辺の戦いで戦略的な退却劇を演じた平家側は、自軍の根拠地である六波羅方面へ義朝勢をおびき寄せ、途中の六条河原で破って潰走させました。敗軍の将となった義朝は、長男の義平・次男の朝長・三男の頼朝・一族の義隆・義信・重成、家臣の鎌田政清・斉藤実盛・渋谷金王丸などを伴って高野川の上流地へ逃走しますが、その途中で比叡山衆徒などの度重なる落ち武者狩りを受けて、朝長・義隆・重成は深手を負って亡くなりました。頼朝も一行と逸れて平家方に捕らわれ、義平は京に戻って潜伏し清盛暗殺を試みますが失敗して最期を遂げます。一方、義朝は翌平治2年(1160)に尾張国へ辿り着き、家来の長田忠致(注1参照、ここをクリック)の許へ身を寄せますが、入浴中に長田父子が襲撃して敢え無い最期を遂げました。享年38歳でした。
観音寺付近のやや詳細な地図2を掲載しておきました。
観音寺の北側では、西側を通過する主稜線から延びてきた支尾根の末端が高野川の川岸近くまで迫って等高線の間隔が密となり、崖地が形成されている事が判ります。こんな厳しい地形の場所で、崖の下側に安全な道を作る事などは当時の土木技術をもってしては不可能だったので、崖上の然るべき地形の場所を選んで道を開くのが普通の方法でした。
観音寺の由来縁起」は、平治物語で語られている八瀬及び周辺での出来事をなぞり、線刻観音菩薩を源義朝が刻んだと伝える地元伝承を採り入れて形成されたものであると言えましょう。
観音寺は、昭和年間になってから先代住職が開山された比較的新しい寺院なので、由来縁起も爾後に纏められたものと思われます。
」や或いは「
」の文字について現住職に質問しましたところ、『「かけ」に当て嵌めた「当て字」ですよ。』とお答えを頂戴しました。即ち地元で従前から通称「かけの観音」として信仰されてきた仏様を祀るために草創した寺の名として、それに相応しい漢字を選ばれたらしいのです。
】かけはし。棧に通ず。』と説明されています。険しい山道で山腹や崖地などに沿って木材を組んで造った橋の様な構造の道「かけはし」を、一般的に「棧道」と称しています。木材の代替に自然の岩壁などを利用した険路を「
道」と呼ぶのでしょう。「かけの観音=がけの観音」を祀る当寺にはピッタリの当て字だと感じ入った次第です。
観音寺の由来縁起」には源義朝絡みの伝説的旧跡として「甲ヶ渕」や「駒止岩」が紹介されています。これらにつきましては、下に示します伝承@〜伝承Gの写真をご覧いただいて本稿を終わる事と致します。| 最初へ戻る | 目次へ戻る | 169.谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さんへ戻る | 171.へ進む |
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