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170.かけの観音
170.かけの観音
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寺院名:2kake25観音寺(かけかんのんじ)
通称名:かけの観音(かけのかんのん)【非】
所在地:京都市左京区八瀬野瀬町21
電  話:075ー701ー4959
バス停:八瀬駅前、または八瀬甲ヶ渕(やせ かぶとがふち)(京都バス)
        地図1M17000
道案内:右の地図1に示しますように、かけの観音へは八瀬甲ヶ渕バス停から歩くと近いのですが、先ずは表参道とも言うべきルートを紹介するため、京都市街地から大原方面へ走る京都バス八瀬駅前バス停(道案内@の写真参照、ここをクリック)を出発点として、朱線ルートを案内致します。
なお、反対方向のバスに乗車された方や叡山電車八瀬比叡山口駅で下車された人などは、地図1の左寄りに書き入れてある交通信号機を利用して国道の対面へ渡り(道案内Aの写真参照、ここをクリック)、このバス停においで下さい。(地図1で分かりますように次の交通信号機は駒飛橋まで有りません。無信号機の地点での国道横断は極めて危険です。)
進路の左側に現れる真新しく立派な寺観の養福寺や八瀬霊園の広大さに目を奪われながら進み続けて行きますと(道案内BCの写真参照、ここをクリック)、やがて路傍に黒っぽい石碑(道案内DEの写真参照、ここをクリック)を見出します。ここから国道367号線と別れて左へ分岐する細い車道(道案内FGの写真参照、ここをクリック)を進みましょう。八瀬霊園墓域の北部やキリスト福音教会納骨堂などを左側に見送りながら歩いて行きます(道案内HIの写真参照、ここをクリック)と、2kake25観音寺墓地参道の入口を左手に見て、程無く目指す「かけの観音」の本堂が突き当りに現れます。(道案内JKの写真参照、ここをクリック)
次には八瀬甲ヶ渕バス停からの裏参道を案内します。地図1に書き込んだ緑線のルートを、右(西)側の絶壁に沿って南進しますと、駒飛橋のほとりに出て幅の広い国道バイパスと合流します。そして右(西)側には、2kake25観音寺裏参道の階段が現れます(道案内L〜Qの写真参照、ここをクリック)。これを登って行きますと道案内Kの写真の地点で表参道と合流します。
M17001 道案内@:大原方面行の八瀬駅前バス停です。停留所名表示板に向かって右方向へ歩きましょう。道案内へ戻る

M17003 道案内B:歩き始めて間も無く、国道から左へ分岐する参道に「吉験山 養福寺」と刻した石標が建っています。左上の大きな建物は養福寺会館で、山門・本堂・庫裡は更に上方に在ります。浄土宗西山禅林派に属し、元は京都市街地の東山区縄手通三条下る大黒町に在りましたが、昭和49〜51年に現在地へ移転しました。
M17005 道案内D:更に歩を進めますと国道左側の道端に黒っぽい石碑が建っています。草書なのでしょうか?変わった書体の四文字を刻んであります。
M17007 道案内F:写真右端に写っている国道とは別れ、中央に見える細い車道を緩やかに上がりましょう。
M17009 道案内H:道案内Cの写真で紹介しました八瀬霊園の広大な兆域は、ここより更に北まで拡がっています。

M17011 道案内J:2kake18 観音寺墓地参道を示す看板です。ここで左の小道へ入ると最奥の山際に、2kake18観音寺の墓地が設けられています。看板が無ければ、八瀬霊園の一部と誤解しそうな位置関係に在ります。




M17013 道案内L:大原方面行バスの八瀬甲ヶ渕停留所です。停留所名表示板に向かって左方向へ戻りましょう。
M17015 道案内N:やがて、この駒飛橋信号交差点に達します。左の狭い道は八瀬甲ヶ渕バス停から歩いて来た本来の国道367号線、右側の広い道は路線バス以外の多くの車が走るバイパスです。
M17017 道案内P:道案内Oの写真右端に写っていた看板を、正面からアップで撮りました。中央に「本尊 観世音菩薩」と大書し、向かって左側に「源義朝公 源家再興発願所 歴代天皇御菩提所 真言宗総本山泉涌寺派 2kake18観音寺」、右側に「鎮守 辨財天女 白狐大岩 稲荷大神」と記しています。
M17002 道案内A:京都市街地方面行の八瀬駅前バス停です。バス進行方向に見える信号機(押ボタン式)を使って国道の向かい側へ渡りましょう。道案内へ戻る
M17004 道案内C:養福寺の参道入口を過ぎると、隣接する八瀬霊園の入口前を通過します。養福寺境内地東側の谷間を占める広大な墓地です道案内へ戻る




M17006 道案内E:最上部の字を拡大して撮りました。「かけ」と、かなが振ってあり、2kake18観音寺の参道を示す石碑だと判ります。道案内へ戻る
M17008 道案内G:対向車のすれ違いも儘ならぬと思われる細い道が奥へ続きます。道案内へ戻る
M17010 道案内I:キリスト福音教会納骨堂には、同じ京都市内とは言え、遠く離れた木幡・深草・山科の信者さんの遺骨を祀ります。道案内へ戻る
M17012 道案内K:車道の末端は2kake18観音寺参道の石段に繋がります。石段の脇に建つ石標には、右に「真言宗泉涌寺 派」、中央に「真山 2kake18観音寺」、左側に「源義朝公源家再興ノ発願所」と刻んであります。右端に在る下りの階段は、駒飛橋の付近から上がってくる裏参道です。横断歩道や駒飛橋が眼下に眺められ、ここが急崖の上に在る事が判ります。道案内へ戻る  境内@へ戻る
M17014 道案内M:大原方面からバスに乗って来た場合は、こちらの停留所です。バスの進行方向へ歩きましょう。
M17016 道案内O:道案内Nの写真を撮った地点で背後を振り返りますと、歩道の横に階段が在ります。これが2kake18観音寺の裏参道です。登って行くと道案内Kの写真地点で表参道と合流します。
M17018 道案内Q:道案内Pの写真に示した看板の更に右(北)側には、古びた石標が崖下に残っています。かなり磨滅していて文字が読み取り辛いのですが、「源義朝 御遺蹟 2kake18観世音」と判読しました。道案内へ戻る












































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由  緒: 先ず、参詣時に頂戴した「洛北 八瀬 真山1kake25観音寺」と題するパンフレットの記事中から2kake25観音寺の由来縁起」を原文のままで引用して紹介させていただきます。なお、このパンフレットでは、「かけ」を表す漢字として「1kake25 」と「2kake25 」の両方が使用されていますので、原文に従って転記しました。

『当山本尊2kake25観音大士は往昔、二条天皇の御宇、源義朝卿、平治の乱、平治元年十二月下旬西暦一一五九年今から約八百二十年前に敗れ、東国に落ちる途すがら、義朝卿の従者、斉藤別当実盛、鎌田兵衛政清、右兵衛佐頼朝、中宮大府之進朝長、新宮重郎、平賀四郎義宣、佐藤式部太夫重成、渋谷金王丸、鷲津源光、陸奥六郎義隆、等三十余名、其の中に義朝卿の長男頼朝は十三才で初陣であった。
当山千束ヶ谷がけの峠にて、戦の疲労にて駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちしが、不思議にも、一寸の痛手もなく身を全うせしにより、再び崖をよじ登り、義朝卿、日頃念ずる観音の御慈悲に随喜して峠の大岩に鏃を以て線刻観音菩薩の尊容を刻まれ、源家の再興を主従一同を以て願われたのである。
かけのこの峠道は昔は若狭街道と言って落人のよく通る間道であったので、義朝が主従諸共都落ちしたことが周囲に知れわたり、中にも比叡の西塔の法師二百五、六十名が、義朝の首をねらって峠を下った(今の甲が渕バス停あたり)ところで待ちかまえていた。
併し義朝卿はこれ以上血を見ることをこのまず、腹を切らんとせしが、家臣の鎌田兵衛政清がお諫めして、主が今亡くなれば源氏は、誰によって再興することが成りましょうや涙ながらにお諫め申した。
従者の中にも斉藤別当実盛が出て申しけるに、この難は我にまかせ給えと申して単独にて群がる法師共の中に行き、義朝卿並藤原信頼はすでに六波羅にて討死されて今はなきがらぞ、ここに義朝卿の甲がある、これをもって手柄にせよと言って法師共に投げた。其の場所は目下の八瀬川の渕であった、今も甲が渕と言って名所の一つである。
川向いの岸辺に在る大岩は義朝卿の駒止岩として今も残っている。
先に述べた甲が渕は昭和十年六月二十八日の大水害にて渕はなくなった。
当山?観音寺は、昭和の初め頃より八瀬村の人達が発願してこの山に寺を起こすべくありしが、時に昭和八年秋彼岸中日二十四日に、先住職善湧上人がたまたま大原の里にて俳句行却の帰る道すがらこの山に立ち寄りし時、村の長老達十数名の方々と話する内に、長老達の希望によりて、善湧決意をあらたにして、仏縁ありてこの山に来て住居なし、山の岩盤を砕き、今日この寺域となり、終戦直後、昭和二十一年三月に歴代天皇御菩提所真言宗泉涌寺派として現在に至る。』


上記2kake25観音寺の由来縁起」の冒頭に書かれた源義朝卿は、平安時代末期の保安4年(1123)に当時の源氏の棟梁であった源為義の長男として京都で生まれました。幼年期を京都で過ごしましたが、少年期を迎える頃には源氏の根拠地である東国へ下り、長じては上総氏や三浦氏・大庭氏などの在地豪族を傘下に収めて、関東南部一円を支配し強大な勢力を誇りました。再上洛をした後の仁平3年(1153)に従5位下の位階を得て下野守に任ぜられ、久寿元年(1154)には父の為義が政治的に失脚した後を受けて源氏の棟梁の立場を得ました。保元元年(1156)に、いわゆる「保元の乱」が勃発し、父の為義は崇徳上皇側に属しますが、義朝は後白河天皇側へ与して戦功を挙げました。しかしながら、父や弟(源為朝)を自らの手で処刑させられる破目となり、戦後の論功行賞でも左馬頭に任じられたのみで、ライバルの平清盛が播磨守の地位を得たのと比較して不遇でした。保元の乱から3年後の平治元年(1159)になると、清盛が熊野詣に出掛けている留守中を狙い義朝は清盛や藤原信西に不満を持っていた藤原信頼と結託しクーデターを起こしました。これが歴史上「平治の乱」と呼ばれている戦乱です。義朝勢は白河院の御所であった三条殿に放火して白河上皇を拉致し、内裏内に移して二条天皇と共に軟禁しました。藤原信西は奈良へ逃亡を図りますが、途中で捕らえられ殺されました。しかし機敏な清盛は早急に都へ戻って政治・軍事両面の工作を行い、二条天皇を自らの六波羅邸へ招き、白河上皇は仁和寺へと脱出させます。この結果、義朝は朝敵の汚名を蒙る事となり、平重盛が率いる平家の大軍(官軍)が義朝勢を襲います。内裏周辺の戦いで戦略的な退却劇を演じた平家側は、自軍の根拠地である六波羅方面へ義朝勢をおびき寄せ、途中の六条河原で破って潰走させました。敗軍の将となった義朝は、長男の義平・次男の朝長・三男の頼朝・一族の義隆・義信・重成、家臣の鎌田政清・斉藤実盛・渋谷金王丸などを伴って高野川の上流地へ逃走しますが、その途中で比叡山衆徒などの度重なる落ち武者狩りを受けて、朝長・義隆・重成は深手を負って亡くなりました。頼朝も一行と逸れて平家方に捕らわれ、義平は京に戻って潜伏し清盛暗殺を試みますが失敗して最期を遂げます。一方、義朝は翌平治2年(1160)に尾張国へ辿り着き、家来の長田忠致(注1参照、ここをクリック)の許へ身を寄せますが、入浴中に長田父子が襲撃して敢え無い最期を遂げました。享年38歳でした。

以上が歴史的事実ですが、「平治の乱」の顛末を記した、いわゆる「軍記もの」と呼ばれるジャンルの書物として「平治物語」(注2参照、ここをクリック)」が世に知られています。その記事中で八瀬や周辺地と関係のある部分を抽出し、現代語で記述してみましょう。

『源義朝は、長男の義平が六波羅へ打ち掛かりながらも敗れ、六条河原から西へ逃れたのを見て「義平が河より西へ引いたのは、家名に疵を付けたと思うぞ。今は何を期すべきか、討死しよう。」と言って敵に打ち懸ろうとした。しかし、家来の鎌田正清が、「身を全して敵を滅ぼすこそ良将と申すのです。」等と申し述べて押し止め、義朝の馬の口を北の方へ向けたので、義朝は力なく河原を上流へ落ちて行った。
源義朝・藤原信頼が戦いに敗れて、大原口へ落ちるとの情報が比叡山へ伝わり、西塔の法師(筆者注:比叡山の武装した衆徒を指す。以下同じ。)は、「いざや、落人を討ち止めよう。」と言って、200〜300人程が「千束ががけ」(筆者注:千束ヶ谷のがけ)で待ち伏せしていた。
この事を義朝が聞き及んで、「都で、どのようにもなるべきであった身が、鎌田のつまらぬ話に乗って、ここまで落ちて来て衆徒の手に掛かり甲斐無く死のうとするのは口惜しい。」と申されたので、家来の斉藤実盛が「私が工夫をして通れるようにしましょう。」と言って馬から下りた。そして、実盛は鎧や兜を脱いで手に引っ下げ、乱れた髪を顔に振り掛けて衆徒に近寄り次のように怒鳴った。「右衛門督(筆者注:藤原信頼を指す。彼は権中納言であると共に、右衛門督も兼職していた。)、左馬頭(筆者注:源義朝を指す。前述のように彼の官職は左馬頭であった。)や、これに仕えていた人々は皆、内裏、六波羅で討ち死にし給うた。我々は諸国から駆り集められた武者どもであって、妻子に逢いたいために恥も知らず本国へ落ち下るのである。討ち止めて罪作りをされて、どうし給うのですか。具足が欲しいのでしたら差し上げましょう。通してください。」
西塔の法師達は「げにも大将達では無いようだ。葉武者を討って何の役に立とうか。具足を脱ぎ捨てれば通られてよい。」と答えた。
そこで実盛が重ねて「衆徒は大勢おはします。我らは小勢なので、鎧の草摺を切り集め数を増やしても、まだ皆さんに行き渡らないでしょう。投げますから奪い取ってください。」と言うと、前へ出て来た若い衆徒が「もっともだ。そうしなさい。」と申して集まった。後ろ側に陣取っていた老僧も我劣らじと一所に集り競い争っている間に、実盛が兜を「かっぱ」と投げた。 我こそが取ろうと衆徒がひしめき合って敢えて敵の様子も見ていなかった間に、義朝方の32騎の兵が、刀を抜いて兜のしころを傾け「がば」と駆け入り蹴散らして通ったので、衆徒は俄かに長刀を取り直し、余さず討ち取れと追いかけた。実盛は大童(注3参照、ここをクリック)になって弓に大きな矢をつがえ、「敵も敵によるぞ。我こそは義朝郎等で武蔵国の住人、長井斉藤別当実盛であるぞ。止めようと思うなら掛かって来いよ。目覚ましい働きの様子を見せてやろう。」とて引き返して来たが、衆徒の中に弓術の巧みな者は少しも居なかったので、敵わないと思ったのであろう。皆引き下がって帰ってしまった。』


注1:長田忠致(おさだ ただむね):平安時代末期の武将ですが生年などは不明です。その家柄は桓武平氏の末流であると言われますが、平治の頃には源義朝の家来になっていたようです。その理由は定かでありませんが、実の娘が義朝の家臣である鎌田政清に嫁いだ関係かららしいです。尾張国の野間(現在名では愛知県知多郡美浜町野間)に所領地を持ち居住していました。鎌田政清の舅である事を頼りにして義朝の一行が立ち寄ったのでしょうが、忠致は裏切って入浴中の義朝を暗殺しました。その功を平家方から賞され壱岐守の地位を得ましたが、後には源頼朝が平家討伐の兵を挙げると呼び掛けに応じて参陣し戦果を得るなど、去就の定まらない武将でした。しかし、頼朝が天下を把握した後には父の義朝を殺害した罪を問い、建久元年(1190)に忠致を捕えて斬首したと伝わっています。 由緒へ戻る
注2:平治物語(へいじものがたり):平治元年(1159)に、平治の乱が勃発してからの戦況や事後処理などを記述した書物で、いわゆる「戦記もの」と呼ばれるジャンルに属します。内容が異なる幾つかの写本が存在し、作者や当初の作成年などは不明です。由緒へ戻る
注3:大童(おおわらわ):当時は、元服前の童子の多くは髪を束ねないで垂らしていました。その髪型を童髪(わらわがみ)と称し、略して童(わらわ)と言いました。これに対して元服後の男は髪を集めて頭上で結う[これを髻(もとどり)と呼ぶ]のが普通ですが、戦場で兜を装着する場合には髻が邪魔になるので、髻を解いて兜を着けました。従って戦場で兜を脱ぐと当然の如く“ざんばら髪”の状態となり、大人が童子の童髪と同様になりますから、大童という言葉が生じました。なお、大童になって髪を振り乱し一所懸命に奮戦する様子が、転じて「夢中になって何事かをすること」を大童と言うようにもなりました。由緒へ戻る

以下では、筆者の脳裏に浮かんだ取りとめの無いフィクションに暫時お付き合いください。

八瀬より更に北へ行くと、観光地として人気のある大原(おおはら)です。ここで毎年5月下旬には「大原女(おはらめ)まつり」が催されますが、その行事の一環として、「大原女時代行列」が地域内を練り歩きます。
大原は三方を樹木の繁る山に囲まれた盆地なので、京の都で消費される薪の産地として古くから著名だったようです。その薪を頭上に載せて都へ運び売り歩く女性たちは「大原女」と呼ばれており、「東北院職人尽歌合」や「七十一番職人歌合」など、中世に画かれた職人歌合にも記されているので、室町時代頃から既に実在していたことが確認できます。そして彼女たちの職業は昭和初期に至るまで連綿として受け継がれました。(ただし都市ガスなどが普及すると、次第に衰退しましたが…)
ところで、遅くとも室町時代に起源を有する大原女の人達が歩いた当時の道筋は、当然のことながら現代の我々が通る国道367号線の辺りではありません。
右側に2kake25観音寺付近のやや詳細な地図2を掲載しておきました。
           地図2K17000
2kake25観音寺の北側では、西側を通過する主稜線から延びてきた支尾根の末端が高野川の川岸近くまで迫って等高線の間隔が密となり、崖地が形成されている事が判ります。こんな厳しい地形の場所で、崖の下側に安全な道を作る事などは当時の土木技術をもってしては不可能だったので、崖上の然るべき地形の場所を選んで道を開くのが普通の方法でした。
当時の道筋を筆者がアバウトに想定してピンク色の線で示しました。
北側の大原から頭上に薪を載せてやってきた彼女(実際には“彼”も混ざって居たかも?)達は、現在の八瀬甲ヶ渕バス停が在る辺りから西南西方向の谷筋に入り、やや谷奥へ入った地点からスイッチバック気味に山肌を巻いて付けられた水平の路を辿ったのでしょう。
この道は程なく左(東)側が高野川へ落ち込む急崖上を進む険路となります。一歩踏み外せば薪諸共に谷底へ転落する危険性に怯えながらも、彼女らは歩みを進めたことでしょう。今は稲荷社が建っている付近からは、現今の稲荷社参道と概ね同様のルートで階段状の急坂を降りたと思われます。
やっとの思いで降り着いた地点は現在の本堂付近であったのでしょう。彼女たちは当然の行動として頭上の薪を降ろし、憩いのひと時を過ごしたに違いありません。降ろされた薪の束が多数並んでいる様を誰かが「千束の薪」と表現したところから、登りに利用した谷を「千束ヶ谷」と称し、途中で通過した急な崖地上の険路を「千束ヶ谷がけの峠」と呼んだと想像できます。
ところで、休息している大原女達の目の前は、先程通過してきた岩壁の下部に相当します。何時頃の事か定かでありませんが、この岩場で修業の日々を送っていた仏者達によって、岩壁に観世音像が線刻されていたようです。彼女達は観音様の御利益に縋り、重荷の薪を頭に載せて「千束ヶ谷がけの峠」を越え得た事を感謝し、更には今後も無事に峠を往来出来ますようにとの祈念を込めて線刻観音像に手を合わせたのです。
この観音像は「がけ」に線刻されているので、「がけの観音」と呼ばれるようになりました。ただし、この時代には「がけの観音」と発音しても、文字に付する濁音記号の「゛」は未だ存在していなかったので、表記すると「かけの観音」です。当然、発音も「かけの観音」と変化も致します。
大原女達が祈りを捧げる「かけの観音」は、やがて地元の八瀬に居住する村人たちからも篤い信仰を受けるようになりました。更に年月が経過するうちに、前記の如く平治物語で語られる源義朝が落人として八瀬を通過した際の話と付会され、「かけの観音」を義朝が刻んだとする説話が作られて、その御利益を謳う地元伝承が次第に形成されていったと判断できます。

由緒の冒頭に示しました「2kake25観音寺の由来縁起」は、平治物語で語られている八瀬及び周辺での出来事をなぞり、線刻観音菩薩を源義朝が刻んだと伝える地元伝承を採り入れて形成されたものであると言えましょう。2kake25観音寺は、昭和年間になってから先代住職が開山された比較的新しい寺院なので、由来縁起も爾後に纏められたものと思われます。
寺名に用いられている「1kake25」や或いは「2kake25」の文字について現住職に質問しましたところ、『「かけ」に当て嵌めた「当て字」ですよ。』とお答えを頂戴しました。即ち地元で従前から通称「かけの観音」として信仰されてきた仏様を祀るために草創した寺の名として、それに相応しい漢字を選ばれたらしいのです。
大修館書店「大漢和辞典 巻八」所収の記事に拠りますと、『【1kake25】かけはし。棧に通ず。』と説明されています。険しい山道で山腹や崖地などに沿って木材を組んで造った橋の様な構造の道「かけはし」を、一般的に「棧道」と称しています。木材の代替に自然の岩壁などを利用した険路を「1kake25道」と呼ぶのでしょう。「かけの観音=がけの観音」を祀る当寺にはピッタリの当て字だと感じ入った次第です。

境内諸堂の様子や御本尊(御前立)については、下に貼り付けた境内@〜境内Pの写真でご覧ください。
K17001 境内@:道案内Kの写真で紹介しました石標(ここをクリック)の左側を緩やかに上れば、すぐ先が本堂です。入母屋造で比較的簡素な建物です。
K17004 境内B:本堂に上がらせて戴きました。内陣は暗くて中の様子は判りません。





K17003 境内D:本堂左横に立っている石灯篭の竿に「2kake18觀世音」と刻字してありました。



K17007 境内F:こちらは境内Eの写真の地蔵堂に隣接する龍王堂です。堂の前の駒札には「当山鎮守 2kake18大龍王」と記されています。
K17009 境内H:辨財天社の左に在る建物には「念仏堂」の額が掲げてありました。
K17011 境内J:さて、今度は本堂に向かって右(東)側へ回り込みますと、赤鳥居の奥に階段が見えています。登って行くと、階段は折り返して急となり、本堂裏の上方へ達します。
K17013 境内L:稲荷社の前から更に進むと末廣大神が祀られています。


K17015 境内N:稲荷社前からの俯瞰写真です。車が走っている国道との高低差が感じられ、かなりの高みへ来た事が判ります。本堂等の建物が真下に見えます。この写真の中央部に写っているのは、境内@の写真で紹介した入母屋造の本堂です。その手前に宝形造の御堂が写っていますね。この御堂の背面が、執筆者の立っている岩壁の下部に接している様子が判ります。
K17017_2 境内P:紅葉時の本堂です。
K17002 境内A:屋根下の扁額に「2kake18観音寺」と記してあり、傍らに「善湧」の署名と印が入っています。当寺を開山した善湧上人が書かれたのでしょう。
K17005 境内C:境内Bの写真説明に書きました訳で、頂戴したパンフレット掲載写真の「當山本堂内陣」を一部拡大使用させていただきました。御本尊2kake18観世音御前立の観世音菩薩立像が、お厨子の中央に安置されて、左の脇侍として不動明王像が配されています。
K17006 境内E:本堂に向かって左横(境内Dの写真で紹介済の石灯篭の奥)には、水子地蔵尊を祀った小堂が在ります。以下、左回りに境内の鎮守社その他の写真を掲載します。
K17008 境内G:龍王堂の更に左に見える鳥居の奥には辨財天の社が建っています。駒札の文字は「2kake18辨財天女」で、こちらでも「2kake18」の呼称が強調されていました。
K17010 境内I:龍王堂の向かい側には、水かけ観音の像が祀られています。
K17012 境内K:階段を登り詰めますと、右側に朱塗りの社殿を見付けました。駒札に「当山鎮守 正一位稲荷大明神 五社稲荷大明神 白狐大岩稲荷大明神」と、稲荷大明神の名が複数記されています。
K17014 境内M:参道は、この辺りから下降して続きます。行く手に見えるゲートから先はプライベート空間のようです。ここらで引き返しましょう。
K17016 境内O:本堂へ戻る路の途中で、境内Nの写真説明で取り上げた2棟の建物を側面から撮りました。宝形造の建物は、先程まで執筆者が立っていた岩壁の直下に接して建っている事が明らかです。かっては宝形造の御堂から奥の岩壁におわした線刻観音菩薩像を拝する事が出来たのだろうと存じます。

















































































































































なお、「2kake25観音寺の由来縁起」には源義朝絡みの伝説的旧跡として「甲ヶ渕」や「駒止岩」が紹介されています。これらにつきましては、下に示します伝承@〜伝承Gの写真をご覧いただいて本稿を終わる事と致します。
D17001 伝承@:道案内Mで紹介した八瀬甲ヶ渕バス停(京都市街地方面行)の写真を、ここにも再掲しました。
D17003 伝承B:「2kake18観音寺の由来縁起」に『先に述べた甲が渕は昭和十年六月二十八日の大水害にて渕はなくなった。』と書いてありますから、現在は甲ヶ渕を見ることが叶いません。その地点から下流方向をアップで撮影しますと、駒飛橋の下側に黒々とした駒止岩の姿を捉えました。
D17005 伝承D:伝承Cの写真撮影地から更に京都市街地寄りへ歩いて、駒飛橋北方で西側を撮りました。道路際ギリギリまで岩壁が迫っています。源義朝が馬諸共に転落したと伝承されている古来の難所の跡です。
D17007 伝承F:国道367号線上から駒飛橋の下を覗いてみました。駒止岩は橋の下に隠れ、手前に樹木が生い茂って見難いです。
D17002 伝承A:伝承@の写真に示したバス停から数十m京都市街地寄りの地点です。左端に近い所にバス停が写っています。右端に在る看板の矢印方向の道を下り気味に行くと、すぐ先で川岸に出ます。バス停の右に建っている家屋を挟んで、更に右側に当たる辺りの川面が、甲ヶ渕の伝承地だと思われます。
D17004 伝承C:国道367号線(バス道)の西側には、この様な急崖が迫っています。
D17006 伝承E:駒飛橋の橋名表示板です。国道367号線は高野川左岸に沿ったままで上流へ向いますがバイパス道は駒飛橋を渡って右岸沿いに付けられています。駒飛橋はバイパス道路用として平成3年9月に竣工した比較的新しい橋梁です。
D17008 伝承G:駒止岩をアップで撮りました。







































































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