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169.谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん
169.谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん
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寺院名:霊鑑寺(れいがんじ)
通称名:谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん(たにのごしょ・ししがたにのみょうけんさん)【非】
所在地:京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町12
電  話:075ー771−4040
バス停:真如堂前または上宮ノ前町
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道案内:最寄りのバス停は上宮ノ前町ですが、ここを通るバスは銀閣寺方面へ向かう北行き一方通行で、1時間に2〜3本程度の運行回数です。そこで系統数や運行回数が多い真如堂前バス停からのルートを、右側の地図に記載した朱線に依って案内します。白川通に架かる横断陸橋の南側から左(東)向きの三叉路を進みましょう。すぐ先で宮の前児童公園に突き当り左(北)折します。道なりに東へ曲がると上り坂で第三錦林小学校の外周に沿い、程なく上宮ノ前町バス停南方に在る信号交差点へ出ます。バス道を越えて更に上り続ければ、哲学の道を横断して疏水の流れに架かる橋を渡ります。左右に分岐する小道は全て無視して直進すると、 やがて下部の写真@(ここをクリック)に示す表門前の石段下へ着きます。ただし、霊鑑寺は平常は拝観謝絶の尼門跡寺院です。例年2旬、椿の開花時期と、紅葉の美しい時候に、特別公開されますので、その時期を選んで参拝・拝観してください。特別公開の月日は年により異なりますから、あらかじめお寺へ問い合わせてからスケジュールを決めて、お出かけになるべきでしょう。
由  緒:この寺の開基と仰がれているのは、江戸時代初期の尼僧で法名を了性院と称された方です。
彼女は公卿の持明院基孝(注1参照、ここをクリック)を父として生まれ(生年不詳)、若年の頃から朝廷に仕えて掌侍(注2参照、ここをクリック)(新内侍)の職を得ました。ある時期から後陽成天皇の寵愛を得て、慶長7年(1602)年に第6皇子(後に出家して堯然法親王(注3参照、ここをクリック)となる人)を生み、朝廷内における官職も順次に昇進して大納言典侍(注2参照、ここをクリック)(三位相当)になりました。しかし慶長15年(1610)になると事情があって朝廷から退出し、実子の後陽成天皇第6皇子が幼時には妙法院宮常胤法親王の許へ入寺しておられた関係から、彼女も妙法院の里坊に住まわれました。
そして慶長17年(1612)には、実子の後陽成天皇第6皇子所領地であった鹿ヶ谷の一部を譲り受け、ここを屋敷地として自身の庵を建て閑居の地と定めました。その屋敷地は現在の霊鑑寺の南側(ノートルダム女学院が存在している辺り)だったと伝わっています。ちなみに拝領した屋敷地の広さは1607坪、知行は120石であったとされています。
同じ年に彼女は剃髪して尼となり了性院と称されたのです。
了性院はこの庵に30余年住んでいたのですが、寛永20年(1643)になると余命幾許もない身と自覚したのでしょうか?東福門院 (注4参照、ここをクリック)に願い出て、屋敷地と知行を存続出来る様に依頼したそうです。そして翌年の寛永21年(1644)1月2日に了性院は亡くなられ、大機分用と号を贈られました。
上記のような次第で鹿ヶ谷の庵と、その屋敷地は東福門院に委ねられました。東福門院は夫君の後水尾上皇とも相談の上で、同年中に同上皇にとって第11皇女に当たる多利宮(たりのみや)に相続させました。しかし、多利宮は寛永16年(1639)の生まれで当時は未だ5歳という幼女でしたから、相続財産の管理は現代流に表現すれば親権者である父の後水尾上皇が為されていたのでしょうね。
それから6年後の慶安3年(1650)になると、後水尾上皇は多利宮が相続した地所内に如意寺という廃寺(便宜上、本稿では前期如意寺と呼ぶ事に致します。)を勅願寺として再興し、同じ名の如意寺とされました。(便宜上、本稿では後期如意寺と呼ぶ事に致します。)
前期如意寺は比叡山延暦寺の第5世座主で園城寺(三井寺)を再興した円珍(注5参照、ここをクリック)が開基したと伝えられ、平安時代中期以降には園城寺の別院として繁栄した大寺でした。その寺域は、三井寺の西側に造られていた藤尾門から、鹿ヶ谷の奥に落ちる「楼門の滝」下側に設けられていた鹿ヶ谷門まで東西数kmの範囲に及び、如意ヶ嶽と大文字山を結ぶ稜線の南側一帯に拡がっていた山岳寺院でした。
しかし、三井寺が作成されているHP内の「歴史年表」を参照しますと、「応仁2年(1468)9月 如意寺焼ける」と記載してありますので、この時期に前期如意寺は廃絶した様子です。
ただし、後水尾上皇が再興された後期如意寺は規模の小さな御堂だったようで、恐らくは多利宮が成長された後に入寺させる為の寺院建設を視野に入れたプロジェクトの端緒だったのでしょうか。
このような前段階を経て多利宮が無事に成長され、承応3年(1654)に得度して宋澄尼と称された際には、住職として入寺されるための寺院が了性院の旧屋敷地に後期如意寺と併設の形で用意されたのです。宗澄尼の為に新しく創られた寺院には、後水尾上皇から「円成山 霊鑑寺」の山号・寺号が下賜されました。鹿ヶ谷に面した土地に開創され、皇族子女が住まわれる御所でもあると共に、尼門跡が住職となる寺院であるところから、何時の頃からか「谷の御所」「鹿ヶ谷比丘尼御所」「霊鑑寺門跡」などの通称も生じたのです。
また、多利宮(たりのみや)は「谷の御所」に住持されたからでしょうか、谷宮(たりのみや)という名で呼ばれるようになりました。
開山第1世の門跡である宋澄尼は、霊鑑寺と後期如意寺の住職を兼帯されましたが、延宝6年(1678)に40歳の若さで亡くなり、廬山寺(上京区寺町通広小路上る)境内の墓地(ここをクリック)に葬られました。法名は浄法身院宮月江宗澄尼大禅師と申し上げます。
宋澄尼が没された時点で門跡を継ぐ方は決まっていませんでした。そこで朝廷が急遽白羽の矢を立てたのが、後西天皇の第3皇女として万治元年(1658)に生誕し、既に成人して22歳になっておられた撰宮(せんのみや)という姫君です。撰宮は宋澄尼が亡くなられた翌年の延宝7年(1679)に出家得度して宋栄尼と名乗られ、直ちに霊鑑寺へ入寺して第2世門跡を継ぎました。
この宋栄尼が門跡であった時代に霊鑑寺は大きな発展を遂げました。
宋栄尼の父君である後西天皇は、寛文3年(1663)に譲位されて上皇となられた後には京都御所内の新院御所にお住まいでしたが、寛文13年(1673)に発生した京都御所の大火で類焼の難に遭われました。その後、延宝3年(1675)になると京都御所築地外に院御所が新築されたので、そちらへ移られたのです。貞亨2年(1685)に後西上皇が亡くなられた後には、院御所の建物を順次解体して他所へ移築する事業が行われましたが、その一環として御休息所、侍部屋、御物置が、従来の霊鑑寺と後期如意寺が併設されていた地の北側、即ち今の霊鑑寺が在る所へ貞亨3年(1686)に持って来られたのです。この時に移築された建物は爾後に増築や改築を受けていますが、玄関 (玄関の写真は、ここをクリック)と書院(書院の写真は、ここをクリック)の一部分として現存しているようです。
つまり霊鑑寺が後期如意寺とは別の場所へ分離する基盤が宗栄尼の時代に築かれた訳で、以後は江戸時代末期にかけて徐々に寺域や建造物の増強・整備が行われ現在に至ったのです。
霊鑑寺に伝来する宋栄尼自画・自賛の頂相(画幅)を写真で拝見しますと、賛の冒頭に「我非女丈夫 争敢補宗途(われは女丈夫ではない。どうして宗門の前途を補っていく事が出来ようか)」と書いておられますが、これは謙遜で一見して「男勝り」と評価できそうな相貌を持っておられます。女丈夫で有ったからこそ上記のような「中興の祖」とも讃えるべき事業を成し遂げられたのでしょう。また宋栄尼は和歌をよくされた方で、数点の懐紙が寺宝として伝わっています。
宗栄尼は42年間という長期にわたり門跡の地位に居られましたが、享保6年(1721)3月2日に享年64歳で亡くなられました。法名を普賢院宮光山宋栄尼大禅師と呼ばれます。墓は後期如意寺境内に相当する現在地名鹿ヶ谷不動山町地内の、宮内庁管理に属する霊鑑寺宮墓地(ここをクリック)に設けられています。
第1世門跡の宋澄尼と第2世門跡の宋栄尼は天皇家の皇女として生まれた方々でしたが、第3世〜第5世の門跡は宮家からの入寺となります。
第3世門跡になられた方は、伏見宮邦永親王(注6参照、ここをクリック)の第5王女として正徳5年(1715)に生誕し、幼名を興宮(よしのみや)と言われました。
霊鑑寺第2世の宋栄尼が薨去されると、同年4月30日に興宮が付弟(跡取)となられました。この際に興宮は霊元天皇の猶子(注7参照、ここをクリック)となりましたので、伏見宮家の出身であっても名目上は天皇家の皇女の立場で尼門跡になれるのです。ただし、当時の彼女は未だ幼女でしたから直ちに尼僧となる訳にはまいりません。得度して第3世門跡・住職になったのは後年の享保14年(1729)8月12日、年齢15歳を数えた頃の事で、宋真尼と称されました。
宋真尼は宝暦13年(1763)11月19日に49歳で死去され、第2世門跡の宗栄尼と同じく不動山の霊鑑寺宮墓地(ここをクリック)に葬られています。法名を転輪院宮祥山宋真尼大禅師と申します。
宋真尼が死去されて後、次代が入寺される寛政元年(1789)までの二十数年間は、霊鑑寺に門跡・住職は居られませんでした。
やがて第4世門跡・住職を継がれたのは、閑院宮典仁親王 (注8参照、ここをクリック)第2王女で、孝宮(たかのみや)と呼ばれる人ですが、彼女は明和6年(1769)生まれですから、前代の宋真尼が亡くなられた時点では未だ誕生すらしておられなかったのです。
孝宮の幼時には、江戸幕府第10代将軍徳川家治の長男、徳川家基 (注9参照、ここをクリック)との婚約が成立していたのですが、彼の急死によって沙汰止みとなりました。
そして寛政元年(1789)になると、前帝の後桃園天皇女御であった盛化門院(注10参照、ここをクリック)の養女になる方法を採って、後桃園天皇の養女となる資格を得て、同年8月には得度して宋恭尼と称し霊鑑寺に入られました。
なお、養父の後桃園天皇は、10年前の安永8年(1779)に崩御されていましたが、この様な方法を採れば故人の養女になる事も可能だったのですね。ちなみに宋恭尼の2歳年下の異母弟が、後桃園天皇崩御直後の時点で同様の方法によって天皇の養子となり、次代天皇として即位されました。(没後に光格天皇と呼ばれている方で、今の天皇家は、その後裔に当たられます。)
宋恭尼入寺後の寛政6年(1794)には、現在の本堂が再建された旨が寺の日記に記載されているそうですが、これは前記の様な幼時の宗恭尼と家基との間の婚約関係などを踏まえて、江戸幕府第11代将軍徳川家斉が寄進したものです。(本堂の写真は、ここをクリック)
宋恭尼は諸所の寺院の法要に赴かれたり、閑院宮家へのお里帰りなど、外出を好まれた様子が日記で伝わっているようです。
宋恭尼は文政4年(1821)11月19日に53歳で亡くなられました。法名を成等覺院宮歓山宗恭尼大禅師と申し、お墓は第2世門跡の宗栄尼や第3世門跡の宋真尼と同様に不動山の霊鑑寺宮墓地(ここをクリック)に並んでいます。
次代の第5世門跡・住職になられたのは宋諄尼です。
この方は文化13年(1816)に伏見宮貞敬親王(注11参照、ここをクリック)の第10王女として生誕されました。幼名は万志宮(ましのみや)です。
文政2年(1819)になると、年端もいかぬ幼女のうちに光格上皇の養女となり、将来は霊鑑寺へ入寺する方向付けが為されました。第4世の宋恭尼が卒去された2年後の文政6年(1823)には彼女が入寺・得度して宋諄尼と称します。
宋諄尼時代の寺の日記には、仏教の勉強をするために他寺から師を招かれたり、また、華道、茶道など如何にも尼門跡らしい趣味・教養を学んでおられた様子が窺えるようです。南禅寺、永観堂、光雲寺など近隣の寺院へも時々出向かれたそうです。
しかし、宋諄尼が入寺されてから約30年経った頃になると、いわゆる黒船が来航して攘夷・尊王の思想が拡がり、国家的な大激動期を迎えます。やがて大政奉還→明治維新となる頃には、霊鑑寺も大きな変革を受ける事になりました。
明治維新前後の国家神道隆盛化に伴って、元皇族が寺院住職となって仏を礼拝することを批判する論議が起こり、その結果として明治4年には門跡制度が廃止されました。(ただし、旧門跡寺院が「門跡」を私称することは、その後に許されました。)皇室から門跡寺院へ入寺していた人々は、僧籍を去って皇族の籍へ戻る事が定まったのです。これに従って宋諄尼も明治6年には伏見宮家へ復籍されました。そして弟子の芝山寛禎さん(旧華族家)が皇族家以外では初めての霊鑑寺住職第6世となられました。第7世、第8世の方々を経て、平成3年に第9世門跡・住職となられたのが佐藤心弦尼です。
ところで、明治時代初期には神道重視の政策に伴って、従来の仏教をも包摂する「大教院」という組織が創られましたが、元第5世の宋諄尼はその中で役職に就けられ、最終的には「大教正」と名付けられた地位に補せられました、そして明治24年に亡くなられました。墓地は最上部の地図に示すとおり霊鑑寺からかなり離れた哲学の道沿いに在ります。(ここをクリック)
一方、後期如意寺は廃仏毀釈の波を受けて明治7年に廃寺となってしまい、寺地の大部分は失われました。跡地の一部はノートルダム女学院高等学校・中学校の敷地となっています。
現在の霊鑑寺本尊は如意輪観世音像で、高さ約20cmの小像、舟形光背の前で岩座上に半跏趺坐する態様の尊体です。本堂に据えられた高さ約60cmの黒塗り厨子内に安置されています。比叡山横川の恵心院に住持した源信(注12参照、ここをクリック)の作品と伝わっております。
通称「谷の御所」の由緒に関する記述を一応ここで擱いて、次にはもう一つの通称である「鹿ヶ谷の妙見さん」の説明に移りましょう。
「鹿ヶ谷の妙見さん」は、霊鑑寺の山門外、山門に向かって左側に在る小さなお堂内に、後述する「如意不動尊」と共に祀られています。(写真P〜S参照)(ここをクリック)
ここに妙見菩薩が祀られるに至った経緯は明確では無いのですが、話は古く平安時代初期に遡ります。承和年間(834〜847)に、都域の四方を守護する意味で東西南北の夫々に妙見菩薩を祀る寺を建立したと伝わります。北方には、後世に五山の送り火「船形」で著名となった舟山の山麓に霊巌寺を設けました。寛平年間(889〜897)に霊厳寺が廃絶すると、その機能は比叡山西麓の月林寺へ引き継がれましたが、何時の頃か同寺も廃絶したので、京都東山の椿ヶ峰西麓に既存していた円成寺で、その妙見菩薩を祀るようになりました。円成寺は寛平元年(889)に、藤原氏の一族で最終位階が従一位まで昇った高級女官が創建した大きな寺でしたが、これも中世には徐々に衰退し応仁の乱の余波を受けて応仁元年(1467)に類焼し廃寺となりました。そして遥か後世の江戸時代になって近隣の霊鑑寺へ引き取られたのが、現在は門外の小堂に祀られている「鹿ヶ谷の妙見さん」という訳です。なお、霊鑑寺の南方に現存する大豊神社(最上部の地図参照)は、盛時の円成寺の鎮守社であったと伝わっています。また、後水尾上皇によって与えられた霊鑑寺の山号が「円成山」であるのも、「円成寺」との関連性を何となく窺わせるような気がします。
ともあれ、現在は「洛陽十二支妙見めぐり」と名付けられた寿福、開運、厄除けを願う庶民信仰の巡拝組織が有って、「鹿ヶ谷の妙見さん」は卯歳生れの人の守護神として信仰されています。(洛陽十二支妙見めぐりのサイトを参照してください。) (ここをクリック)
妙見菩薩は一般的に日蓮宗系の寺院で祀られることが多く、「洛陽十二支妙見めぐり」の場合も例外では有りません。12ヶ寺中の11ヶ寺が日蓮宗で、霊鑑寺のみが臨済宗南禅寺派に属しているのは特異です。
さて次は不動尊石像です。前述のように現在は妙見菩薩像と同じ小堂内に祀られており、堂の前には「如意不動尊」と刻んだ石標が建っています。
円珍開基の前期如意寺跡については、三井寺の宝物として伝わる「園城寺境内古図(重要文化財 鎌倉時代末期 14世紀)」に如意寺の図も含まれており、そのコピーを見ますと鹿ヶ谷門を入ってすぐの所(山中に現存する楼門瀧の付近)に不動堂が画かれています。
この不動堂に収められていたと言われる不動尊石像について、次の様な伝説が伝わっています。
室町時代に前期如意寺が廃絶した後は諸堂も朽ち果て、不動尊石像は路傍に放置された儘になっていましたが、何時の頃か、鹿ヶ谷在住の農夫が持ち帰って自宅の辺りに据え置いていました。しかし、後年になるとその農夫が病んだので、慌てて如意ヶ嶽山麓へ戻すと病が癒えたという内容の縁起譚です。
この伝説を裏付けるかのように、第2世門跡宋栄尼時代の天和年間(1681〜1683)に、前期如意寺の遺品と伝わる上記の不動尊石像を霊鑑寺の東築地外へ遷座した事が日記に記載されているそうです。
さてここで、時代が約1世紀ばかり下った天明7年(1787)(霊鑑寺にあっては、第3世門跡の宋真尼が薨去されてから20年余りが経ち、次の宗恭尼が第4世門跡を継がれる2年前に当たります。)に刊行された「拾遺都名所図会」を見る事に致しましょう。

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右は、拾遺都名所図会所載の「鹿ヶ谷 霊鑑寺 如意寺」図絵です。なお、図絵中の小さな文字は読み取り難いので大き目の活字に書き換えました。
図絵の左端最下部に霊鑑寺が画かれています。山門は宝暦2年(1752)の創建なので、参道の石段と共に現状と似通っているようです。山門内には幾つかの建物が画かれていますが、中央部にひときわ目立つ建物が在ります。位置と規模から察するに現存している書院です。この書院は本文に記載したとおり貞亨3年(1686)に元の後西院御所から移築されたものです。反面、本堂は寛政6年(1794)に新築されたので、この図絵には当然見当たりません。もう一つの特徴を挙げますと、霊鑑寺境内についての説明が何ら行われていない事です。これは当時の霊鑑寺が未だ発展途上であって、完成度が低かったことを示しているとも言えるでしょう。
図絵の右側には如意寺が画かれています。こちらは、本堂の他に閼伽井と霊木杉や鹿宮など説明入りです。
(資料引用:国際日本文化研究センター 平安京都名所図会データベースから)

上記の拾遺都名所図会所載「鹿ヶ谷 霊鑑寺 如意寺」図絵の解説文を以下に掲げます。
先ず、霊鑑寺の項には「霊鑑寺 鹿谷にあり、禅宗 本尊不動明王 智証大師の作、立像、一尺余 開基は霊鑑院尼公(←筆者注:了性院を指します。)にして、後水尾院皇子妙法院尭然法親王母公なり。それより代々比丘尼御所御住職し給ふ。」と書いています。
注目すべきは、拾遺都名所図会が編纂された時点、すなわち天明7年(1787)当時における霊鑑寺本尊は不動明王で、智証大師作の立像という事にあります。つまり当時の霊鑑寺本尊は、現本尊の如意輪観世音像ではなくて、元々は智証大師円珍が造像し前期如意寺で祀られていた不動明王石像であると言っているのです。
一方、同じ解説文の如意寺の項には「如意寺 霊鑑寺の南にして、谷を隔て隣る。いにしへは如意が嶽楼門瀧の傍にありて、諸堂巍々たり。開基智証大師、此山を巡覧し給ふ所に、忽然として一ツの鹿現れ、嶮岨を平均とし、大師の裳を喰て巌窟に至るに、観世音の霊像現然たり。大師歓喜して当寺の本尊とし給ふ。乱逆の世滅亡し、久しく荒廃の地となりしを、霊鑑寺尼公(←筆者注:了性院を指します。)御再建あつて、旧地の麓今の所に小堂をいとなみ給ふ。」とありますので、拾遺都名所図会編纂時点での如意寺本尊は観世音菩薩像だった(“如意輪”とは書いていませんが)様子が窺がえます。
筆者が思いますに、かって如意ヶ嶽山中に在った前期如意寺が応仁の乱で焼失した際に、救出された如意輪観世音像が、後水尾上皇による後期如意寺再建時から拾遺都名所図会が編纂された天明7年(1787)を過ぎる時期までは、後期如意寺の本尊として祀られており、前記のように寛政6年(1794)に霊鑑寺の現本堂が再建された際には霊鑑寺本尊として迎えられたのではないだろうか、そして本来の霊鑑寺本尊だった不動尊石像は逆に如意寺の本尊とされたのではないか、…などと推察する次第です。そして霊鑑寺の記録に拠りますと、明治4年に「如意寺廃寺に付、石不動尊を妙見堂に移す。」と明記されているそうですので、不動尊石像が妙見堂に併祀された経緯が分かります。

以上、霊鑑寺に関する由緒等を、歴史がらみで記述しましたが、霊鑑寺の現状は「椿の寺」「紅葉の名所」として著名です。「道案内」の項で断りましたように、平常の霊鑑寺は拝観謝絶であるために門前も閑散としています。しかし、特別拝観が実施される期間中には多くの観光客で賑わいます。(筆者も当然その一人として花や紅葉を愛でながら取材したのです。)
椿や紅葉の美しさは専門のサイトにお任せするとして、その一端のみを後の方に掲載する写真で紹介しますので、宜しければ御笑覧ください。(ここをクリック)

注1:持明院基孝(もとたか):永正17年(1520)に藤原氏北家の流れに連なる持明院家に基規(もとのり)を父として生まれ、最終官位は中納言・正二位に昇り、慶長16年(1611)に逝去しました。 由緒へ戻る
注2:掌侍・典侍:律令制度に基づいた官制では朝廷内に内侍司(ないしのつかさ)と呼ばれる組織が設けられていました。天皇に仕える秘書と言うべき業務を行う者の役所であり、構成員は女性でした。掌侍・典侍というのは内侍司内の役職名です。ただし、時代によって組織の消長や職務内容の変化がありますので、本稿では江戸時代における状態を記します。
内侍司内の職制は、尚侍(ないしのかみ、或いは、しょうじ、定員2名)が長官で、位階は従三位相当ですが、平安時代後期以降には事実上は任命されなかったようです。
次官が典侍(ないしのすけ、或いは、てんじ、定員4名)で、位階は従四位相当です。ただし、本稿で取り上げている了性院が未だ宮仕えをしていた若い頃には男性の大納言と概ね同位階の三位相当まで昇進したので、彼女は「大納言典侍」と呼ばれる事になったのです。けれども実務的な権限は無くて「天皇の皇子を生んだので、それに相応しい身分へ名目的に上げられた。」と理解すべきでしょう。
現代なら事務官と言うべき職分が、掌侍(ないしのじょう、或いは、しょうじ、正規定員4名の他に、権官と称する枠外員を2名任命する事が認められていました。)で、位階は従五位相当ですが、内侍司の業務は彼女らが権限を持って牛耳っていました。掌侍の中で最上位の者は「勾当内侍(こうとうのないし)」または「長橋局(ながはしのつぼね)」と呼ばれており、尚侍や典侍が形骸化していた江戸時代には、天皇に決裁を願う「奏請」、天皇の意思を臣下に伝える「伝宣」を含めた実務を勾当内侍が取り仕切る状態であり、当時は大納言典侍よりも勾当内侍の方が対外的権力が上であったと言われています。 由緒へ戻る
注3:堯然(ぎょうねん)法親王:慶長7年(1602)に後陽成天皇の第6皇子として生まれ「六の宮」と呼ばれていました。母は掌侍を務めていた持明院孝子(後の了性院)です。生まれた翌年には妙法院の常胤法親王の許へ引き取られて僧侶となる将来が約束されます。慶長18年(1613)に親王の資格を与えられ、元和2年(1616)に得度して僧侶となり堯然と号します。その後には妙法院門跡の地位に就きました。寛永17年(1640)には第171世天台座主に任ぜられ、以降は第174世、第178世を歴任しました。書道、華道、茶道、香道に秀で、絵画も残しているなど文化人としても著名な人です。寛文元年(1661)に没しました。 由緒へ戻る
注4:東福門院:慶長12年(1607)に江戸幕府第2代将軍徳川秀忠と正室お江の間に第7子(5女)として生まれ、和子(まさこ)と名付けられました。この様な身分の女児は当時の常として政略結婚の具になります。慶長17年(1612)に後水尾天皇が即位すると、徳川家大御所の家康は早速に和子を後宮へ迎え入れるように申し入れました。これを受けて慶長19年(1614)に入内(輿入れ)の宣旨が朝廷から発せられましたが、諸般の事情(内容は省略します。)によって実際の入内は6年後の元和6年(1620)にずれ込みました。
入内当初には女御(皇后に次ぐ地位)でしたが、寛永元年(1624)には中宮(皇后と同格)となりました。夫君の後水尾天皇との間には2皇子と5皇女が生誕されたのです(天皇が退位して上皇となられた後に生まれた方も含みます)が、第1皇子は3歳で、第2皇子は生後間もなく死亡しました。従って男性の皇太子候補者は居なかったのです。
寛永6年(1629)になると、朝廷と幕府との間で大きな確執が生じました。(有名な「紫衣事件」ですが内容は省略します。)後水尾天皇は突然譲位されて、第1皇女を内親王に立てられました。従って和子は、もはや中宮ではなくなったので、先例に倣って院号を名乗りました。東福門院と称されたのです。年齢は23歳という若い女院でした。
翌寛永7年(1630)には、第1皇女輿子(おきこ)内親王が即位されて、奈良時代の孝謙天皇が崩御されて以来860年ぶりの女帝が誕生しました。後に明正天皇と呼ばれる方です。
東福門院は延宝6年(1678)に亡くなり、泉涌寺山内の月輪陵に葬られました。 由緒へ戻る
注5:円珍:弘仁5年(814)に讃岐国で生まれました。真言宗を開いた弘法大師空海から見て姪の子に当たりますが、叔父が伝教大師最澄の弟子であった関係により、14歳の時に天台宗の比叡山延暦寺へ入りました。19歳で得度して僧侶となり、山嶽を修行の地として12年間に亘る研鑽を積んで、承和13年(846)には比叡全山の学頭の地位を得ました。仁寿3年(853)唐の国へ渡海して、求法遍歴の旅を続け、多くの成果を得て天安2年(858)に帰国しました。帰国後しばらくして比叡山へ戻り、貞観10年(868)には第5代天台座主に任じられました。併せて比叡山東麓の園城寺(三井寺)を朝廷から賜ったのも、この頃の事です。寛平3年(891)に入寂しました。延長5年(927)には醍醐天皇から智証大師の諡号が贈られました。 由緒へ戻る
注6:伏見宮邦永(くになが)親王:延宝4年(1676)に伏見宮貞致(さだゆき)親王の第3王子として生まれました。父君死後の元禄8年(1695)に親王宣下を受け、伏見宮家の第14代当主となられました。朝廷における官職は中務卿に任じられ、最終位階は一品に上がりました。享保11年(1726)没。由緒へ戻る
注7:猶子:便宜的・契約的な親子関係を言う言葉で、養子よりも結び付きが弱いものです。現代なら被後見人と後見人の間柄でしょうか。由緒へ戻る
注8:閑院宮典仁(すけひと)親王:享保18年(1733)に閑院宮直仁(なおひと)親王の第2王子として生誕されました。最終位階は一品まで上がられましたが、官職の方は太宰師で終わりました。しかし、文化人としては著名な方で、特に和歌の道に優れた存在感を有し、古今伝授(「古今和歌集」の語句の解釈や秘説などを、師から弟子へと口伝、書き物などにより伝授すること。)の伝承者と称されています。また、能書家でもあって、その遺墨は貴重な物だそうです。ェ政6年(1794)没。
ところで、この方は現代にあっては「慶光天皇」と呼ばれています。
江戸時代初期においては、当代の天皇が次期天皇となるべき皇子を儲けずに崩御された場合に備えて三つの世襲親王家が存在していました。伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家です。東山天皇の時代に、これに加えて新たな世襲親王家として創設されたのが閑院宮家であり、その初代が直仁親王、二代目が典仁親王です。この策は正に当を得ていたようで、本文に記しましたとおり後桃園天皇が崩御された際に、典仁親王の第6王子であった師仁親王が後桃園天皇の死後養子に急遽なられて、天皇家を継がれたのです。新しい天皇の父君である典仁親王は、前記のように朝廷における官職が低位だったので、改めて「太上天皇」の尊号を贈ろうとする動きが朝廷内に起こりましたが、江戸幕府の老中松平定信に反対されて実現できなかった経緯が有ります。後世に明治天皇は、閑院宮典仁親王が御自身の直系の御先祖であるため、「太上天皇」の尊号と「慶光天皇」という諡号を贈られたのです。廬山寺(上京区寺町通広小路上る)境内の墓地 (墓地Cの写真参照) (墓地Dの写真参照) は天皇御陵の扱いを受けています。 由緒へ戻る
注9:徳川家基(いえもと):江戸幕府第10代将軍徳川家治(いえはる)の長男として宝暦12年(1762)に生まれました。側室のお知保が生んだのですが、男子が居なかった正室の倫子の養子となって成長しました。幼少期から聡明の誉れが高く文武両道に秀でていました。成長後には政治にも関心を持ち、父の家治が信任して取り立てた老中田沼意次の施政を批判するなどもしています。しかし、安永8年(1779)になると、鷹狩りの帰途に寄った寺院で突然に発病して三日後に死去し、その突然の死は幕閣に衝撃を与えました。世間では陰湿な暗殺説が囁かれたそうです。例えば近い将来に家基が将軍に就任する事によって失脚するのを恐れた田沼意次による毒殺説、或いは家治の後を継いで第11代将軍になった徳川家斉(いえなり)の父である一橋家の徳川治斉(はるなり)が毒殺させたとする説などです。(若し、この説が正しければ一橋家の謀略は大成功を収めたと言えます。)父の家治は、自らの後継ぎがいなくなったために、一時は食事が出来ないほどに悲しんだと噂されています。 由緒へ戻る
注10:盛化門院(せいかもんいん):宝暦9年(1759)に関白太政大臣であった近衛内前(うちさき)の子として生誕し、名を維子(これこ)と称されました。明和5年(1768)に幼少の身で時の皇太子英仁親王に嫁ぎ、夫君の即位(後桃園天皇)に伴って女御に挙げられました。皇女を一人儲けられましたが、皇太子となるべき男児が生まれないうちに、本文記載のとおり安永8年(1779)に夫君が崩御されてしまいました。そこで閑院宮家から師仁親王を迎えて急遽立太子させ、この方が後の光格天皇となられた経緯も前記したとおりです。そこで彼女も皇太后の身分となりましたが、天明3年(1783)に崩じました。享年僅かに24歳でした。死没当日に盛化門院という女院号が追贈され、泉涌寺山内の月輪陵に葬られています。由緒へ戻る
注11:伏見宮貞敬(さだゆき)親王:安永4年(1775)に伏見宮邦頼(くにより)親王の第1王子として生まれ幼名は嘉禰宮(かねのみや)と申されました。安永8年(1779)に後桃園天皇が崩御された際には、閑院宮美仁親王や師仁親王と共に皇位継承の候補者として名が挙がった方です。寛政9年(1797)に親王宣下を受け、享和2年(1802)に父君の邦頼親王が没すると、伏見宮家を継いで第19代当主になられました。官職は享和4年(1804)に兵部卿に任じられ、天保12年(1841)には最終位階の一品へ上がりましたが、間も無く薨去しました。由緒へ戻る
注12:源信: 天慶5年(942)に大和国葛城郡当麻で生まれました。天暦2年(948)に父が死んだので、同4年(950)には比叡山へ預けられ、慈恵大師(元三大師として著名)良源の下で修業の生活を送りました。天暦9年(955)に得度して僧侶となりましたが、なかなかの秀才だったようで、翌天暦10年(956)には年少の身でありながら法華八講(法華経は8巻から成っています。これを一日に朝夕2巻講釈して、4日間で全巻の講釈を終える法会です。)の講師の一人として当時の村上天皇から指名されています。しかし母の諫めに従って、やがては僧としての名利を得る道を捨て、師の良源と同様に比叡山三塔の最北部に在る横川の地を選び、恵心堂という小堂に隠棲して念仏三昧の境地に浸ります。そこで世の人は彼の事を恵心僧都と呼ぶようになりました。寛和元年(985)に編纂が終わった著書の『往生要集』は有名な仏教書で、以後の仏教界の在り方や貴族〜庶民に亘る信仰の方向付けにも大きな影響を齎しました。寛仁元年(1017)に示寂しました。由緒へ戻る

16901_2 @道案内に書きましたとおりに歩きますと、堂々とした表門の前へ着きますが、春秋の特別公開時以外は厳然と門が閉じられています。道案内へ戻る
16903_2 B特別公開期間中の休日などには、写真@と同じ表門の前が、この様な多数の拝観客で賑わうのです。なお、最左端に居る人々の上側に見える小さなお堂は、後述する妙見堂です。 写真Pへ飛ぶ
16905_2 D表門を入ると、左側に玄関の建物が見えます。本文記載のとおりに後西院御所の一部を貞亨3年(1686)に移築した後に増改築されて現存しています。南側の小玄関、御玄関、使者の間、詞石の間の4室と、その北側に連なる6畳の間、竹の間の2室から成ります。ただし此処は特別公開時でも拝観は出来ないので前方の小門を潜って書院へ進んで行きましょう。由緒へ戻る
16907_2 F書院内のメイン的な部屋ともいうべき「謁見の間」です。最奥は上段の間で、床や棚と平書院を備え格天井張りです。上段の間より一段低いのが二の間で、門跡の正式御座所でした。上段の間と二の間の境目には筬欄間(おさらんま:細木を縦にして密に並べた欄間)が嵌められ御簾が下がっています。二の間より更に手前が三の間で、いわゆる御対面所だったのです。特別公開時、上段の間には第2世門跡普賢院宮宋栄尼の御姿を模した人形が据えられていました。
16909_2 H本堂へ上がる石段の途中から書院前の庭園を振り返って撮りました。石段の辺りは崖地であるため土留めを兼ねた石組が施されて池泉観賞式庭園の一角を占めています。春には椿やつつじの花、そして秋には紅葉を目当てに多くの拝観者兼観光客が訪れます。特に椿は著名で、その樹種は新旧を取り混ぜると三十数種類にも及ぶそうです。
参考:境内で見られる椿の樹種:日光・月光・ちり・小桜・おそらく・白玉・羽衣・白侘助・紅八重侘助・胡蝶侘助・舞鶴・有楽・衣笠・孔雀・蝦夷錦・永楽・熊谷・不知火・奴・獅子・縮緬・雪・曙・菱唐糸・風折・崑崙黒・大虹・早咲赤藪・雪中花・白澄・黒・ローゼフローラ・ルチェンシス・秋の山
16911_2 J本堂前から更に石段を上がりますと、突き当りに鎮守社の天満宮が現れます。
16913_2 Lブナ林の中を通る快い平坦路を辿り、境内の北端へ向かいます。
16915_2 Nまたもや左折すれば下り道となって、書院裏側の庭園へ降り着きます。洒落た形の石灯籠を見受けました。竿の部分に「洗心亭」と刻まれています。
16917 Pこちらは妙見堂です。写真B をご覧になると判りますように、霊鑑寺境内から直接妙見堂へ行く事は出来ないのです。一旦、表門前の道路へ降りて、少し北側へ寄りますと、妙見堂専用の小さな石段が見付かります。
16919 R妙見堂の内部です。向かって右側のお厨子は扉が閉じられており、中に秘仏の不動尊石像、即ち如意不動尊が祀られているのでしょうか。左側のお厨子は開扉されていて、右腕を上げた状態の像が居られます。
16902_2 A石段下の右側に建つている石標正面に「後水尾天皇創建 谷の御所 霊鑑寺門跡」と、通称も含めた文字が彫られています。
16904_2 C表門は切妻造で瓦葺の薬医門です。宝暦2年(1752)の年記入り祈祷札が掲げられていたので、その頃の建立かと理解されています。
16906_2 Eこの書院は、写真Dの玄関と同様に後西院の御所から貞亨3年(1686)に移築され、その後にも増築や改築を受けています。次の写真Fで紹介する謁見の間(上段の間、二の間、三の間)を始めとして、その西側には四の間、五の間が連なり、更には母屋の南面側と東面側には畳敷きの縁側が回って、全体で書院と呼ばれる建物を構成しています。室内に上がると、多数の寺宝が展示されていました。由緒へ戻る
16908_3 G書院南側に造られた庭園です。池泉観賞式庭園で、かの有名な小堀遠州が造庭したとの伝承も唱えられているようですが、実際には違う様子です。写真右(南)側の奥(東)寄りに滝石組が残っており、かっては山中から流れ落ちる谷水を利用して池へ流し込んでいた様子ですが、現在は殆ど枯れています。右端手前には般若寺形の石燈篭が見られ池尻の辺りに石橋が架けられています。そして写真左端の中央部に写っているのは、本堂へ上がる石段の手すりです。
16910_2 I書院の東側から石段を上がって行くと、左側に本堂が在ります。正面3間で側面が4間の宝形造建築物で、正面側から2間を外陣とし奥側の2間が内陣です。また、東側に桁行2間で梁間が3間の建物が付設されています。本文記載のとおり寛政6年(1794)に江戸幕府の第11代将軍徳川家斉の寄進により建てられたもので、如意輪観世音菩薩半跏趺坐像が本尊です。その他に恵心僧都源信作と伝わる地蔵菩薩立像、第2世の門跡宋栄尼が夢で視た弁財天のお姿を、厳島神社の大鳥居の朽木で仏師に刻ませたと伝わる像、徳川家斉御台所の高台院が自刻された阿弥陀如来像、などの、多くの仏像が本堂内に安置されていると承ります。由緒へ戻る
16912_2 K鎮守社前で進路は左へ曲がります。書院の側面を上部から撮りました。
16914_2 M境内北東端に聳える楓の巨樹です。樹下のベンチでは観光客が憩います。
16916 O書院の側面へ戻ると左(東)側に大石が置かれていました。駒札に「徳川将軍が尼宮様に献上した硯石」と書いてあります。どんな使い方をしたのでしょうか?
16918 Q写真Pの妙見堂には、格子戸の向かって右側に木の札が掛けられ、更に右下の地面には石標が埋められているのが見えます。両者を拡大したものが、この写真です。即ち堂内には妙見像と、如意不動尊像が祀られているのです。
16920 S写真Rの左部分を拡大したものです。お厨子に向かって右下に小さなお前立が居られます。右腕を頭上に挙げ破邪の剣を振り翳した妙見大菩薩のお姿です。由緒へ戻る


































































































































































































境内に咲く花を幾つか紹介します。 16931 花@:花種の多様さを誇る霊鑑寺の椿の中でも、この日光(じっこう)椿は代表的なものです。椿の花種は大きく分けて10種有るそうですが、その中の「唐子咲き」と呼ばれる花種は雄蕊が小さな花弁の形になり、花芯部に纏まって咲きます。日光は唐子咲きの一種ですから豪華に咲き誇るのです。霊鑑寺の日光は、樹齢300年以上と称する古木ですので、第2世門跡の宗栄尼の頃に植えられたのでしょうか。幹は下部で二股に分かれて、東の幹は地上40cmの辺りで樹周が94cm、西の幹は同じく75cmに達しているそうです。上部では10本の大枝に分かれてコンモリした樹形を呈します。
16935 花B:緑の苔にピンク色の花が散り敷く様は何とも見事です! 16933 花D:これは木札に示すとおり八重紅梅です。幹の様子から察すると、かなりの古木と見受けました。
16932 花A:おそらく椿は、10種類程に分かれる椿の花種の中で「八重咲き」に属する「五色八重散椿」の別名です。ネーミングにつきましては次のような伝説めいた話が巷間に流布されたようですが、勿論、信ずるには足りません。「或る人が小堀遠州に対して『霊鑑寺で見事な花を咲かせる樹を見たのですが、あれは何でしょう?』と問いかけたところ、『“おそらく”それは椿であろうか』と答えた」というものです。一方、伏見区の御香宮にも同名の椿が有り、「小堀遠州が参詣した際に境内の椿を愛でて『これ程に見事な花を咲かせる椿は、“おそらく”他には無い!』と絶賛した」との別説が伝わります。 16936 花C:花一輪、アップで撮りました。私の写真も捨てたモンジャ無い!と自画自賛 16934 花E:左側に載せた花Dの写真では、花の様子が分り難いと思いますのでアップで撮りました。 由緒へ戻る




























































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以下では霊鑑寺の第1世〜第5世門跡の墓地について記します。

宗澄尼墓 由緒(宗澄尼の記事)へ戻る
霊鑑寺の第1世門跡であった宗澄尼は、本文にも記載しましたように廬山寺境内の墓地に葬られました。(廬山寺のホームページは、ここをクリックしてご覧ください。沿革のページには境内写真図も掲載されています。)
廬山寺の山門を潜って、正面の元三大師堂とその奥に連なる本堂の玄関などを左に見送り、道なりに境内の右(南)端へ導かれると、約4m幅の通路が見えますので、 (墓地@の写真参照)そちらへ進みましょう。通路の奥に小さな建物が在るようです。 (墓地Aの写真参照)建物に接近すると「宮内庁慶光天皇陵見張所」と書いた表札が掲げてありました。見張所の前で左を向くと、行く手に玉垣で囲われた一角が現れます。 (墓地Bの写真参照)玉垣の前面右側に建つ宮内庁の制札には、「慶光天皇廬山寺陵」の文字と並んで、15人の皇族方の墓が併祀されている旨が記されています。しかし、その中に「後水尾天皇皇女多利宮墓」の文字は見当たりません。多利宮は皇族の身分を離れて門跡寺院の住職に就任されたのですから当然とも言えます。 (墓地Cの写真参照) また、玉垣の前面左側に「慶光天皇廬山寺陵」と刻んだ標石も設けてあります。 (墓地Dの写真参照)ここで玉垣の右端へ目を向けて下さい。狭い通路が見付かる筈です。 (墓地Eの写真参照)その通路へ入ると、広大な墓地の北西端付近に目指す墓が在ります。 (墓地Fの写真参照) (墓地Gの写真参照)

005墓地@:小道の入口左(北)側に「廬山寺陵 参道」と刻字した石標が建っていて参詣者を導いてくれます。 宗澄尼墓地記事へ戻る
007墓地B:墓地Aの写真説明に書きました「宮内庁慶光天皇陵見張所」の前で左(北)側を撮りました。突き当りに玉垣で閉ざされた陵域が写っています。 宗澄尼墓地記事へ戻る
009墓地D:玉垣前面左側に「慶光天皇廬山寺陵」と刻んだ標石が設けてあります。宗澄尼墓地記事へ戻る
注8:閑院宮典仁親王記事へ戻る
011 墓地F:霊鑑寺第1世門跡であった宗澄尼が眠っておられる御墓を漸く見付ける事が出来ました。皇籍を離れて門跡寺院の住職となられた尼僧に相応しい小振りな 宝篋印塔でした。宗澄尼墓地記事へ戻る

006 墓地A:墓地@の写真撮影位置から少々右(南)へ寄ると、参道の奥に小さな建物が見えました。「宮内庁慶光天皇陵見張所」です。 宗澄尼墓地記事へ戻る
008 墓地C:玉垣の右(東)端近くに設けられた宮内庁の制札です。慶光天皇や妃と共に祀られている皇族方の名も併記してあります。 宗澄尼墓地記事へ戻る
注8:閑院宮典仁親王記事へ戻る
010 墓地E:玉垣から右(東)側へ視線を逸らすと狭い通路が見えます。ここを入れば隣接する墓地へ導かれます。宗澄尼墓地記事へ戻る 012墓地G:墓前に建つ石標はかなり古びて文字が読取り難くなっていますが、上部右側に「後水尾天皇」左側には「皇女」、そして下部には大ぶりな文字で「霊鑑寺宋澄御墓」と刻まれていました。宗澄尼墓地記事へ戻る

















































































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宗栄尼墓  由緒(宗栄尼の記事)へ戻る
宗真尼墓  由緒(宗真尼の記事)へ戻る
宗恭尼墓  由緒(宗恭尼の記事)へ戻る
第2世門跡の宗栄尼、第3世門跡の宗真尼、第4世門跡の宗恭尼、 これらのお三方は鹿ヶ谷不動山町地内の霊鑑寺宮墓地に葬られています。
16978墓地H:後期如意寺の跡と思しき不動山の山中に門と生垣で仕切られた一角が在ります。
16980_2墓地J:生垣は低いものなので墓域内が見渡せます。左端に1基、右寄りに2基の卵塔が建っています。それぞれが、どなたの御墓なのかを写真内に黄色文字で示しました。

16979墓地I:門扉に向かって右の前に建っている駒札は宮内庁の制札で、「霊鑑寺宮墓地」と記されています。
16981墓地K:域内に標石は1本しか見当たりません。拡大すると「後西院天皇 皇女 霊鑑寺宗栄御墓」と読めました。





































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宗真尼墓  由緒(宗真尼の記事)へ戻る
宗恭尼墓  由緒(宗恭尼の記事)へ戻る


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宗諄尼墓  由緒(宗諄尼の記事)へ戻る
春秋のシーズンには観光客で混み合って、とても哲学的な思索に浸る気分などに成れない哲学の道ですが、時期を選んで平日に行くと長閑な風景に接することが出来ます。

16991墓地L:哲学の道を歩いていると、疏水の対岸(東側)に塀と門で囲われた一角が現れます。
16994墓地N:塀の前に建つ宮内庁の制札に「宗諄女王墓」と記してありました。
16992墓地P:紅葉の季節に訪れますと、この様な素晴らしい景観に接することが出来ます。

16993墓地M:墓地Lに写っている小橋を渡れば門の前へ行けますが、扉は閉じられています。
16995墓地O:墓地Mの右端に写っている崖へ上りますと、墓域内が望めます。山側を背にして建つ1基の卵塔が、それと判ります。















































謝  辞:「谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん」という二つの通称で知られる霊鑑寺を「京の通称寺(続編)」で紹介しようと志したものの、当初は「尼門跡寺院『霊鑑寺』特別公開」と名付けられたパンフレットのみが手許に有る唯一の資料でした。ところが平成20年春の特別公開時に、説明員の方が使用しておられた霊鑑寺発行の図録「谷の御所 霊鑑寺」を初めて知りました。お寺に問い合わせましたところ既に在庫をお持ちでないとのことで諦めていましたが、図らずも著者の岡村喜史先生からお手持ちの貴重な1冊を頂戴することが出来ました。
更には株式会社淡交社発行の「京の古寺から 17 霊鑑寺」を図書館で閲覧して、霊鑑寺第9世門跡の佐藤心弦尼が書かれた記事にも接しました。
これらの資料を拝読することで、執筆者は一気に知識を深める事が可能となり、自分なりの私見を加えて由緒などの文を作成した次第です。上記のお二方に厚く御礼を申し上げます。

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