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168.南殿・やしょめの寺
168.南殿・やしょめの寺
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寺院名:順興寺(じゅんこうじ)
通称名:南殿・やしょめの寺(なんでん・やしょめのてら)【非】
所在地:京都市右京区鳴滝松本町2 9ー 1
電  話:075−462−8800
バス停:三宝寺
16800_2
道案内:バスは国道162号線、いわゆる周山街道を走ります。三宝寺バス停から右図の朱線に従って緩い坂道を高雄方向へ歩き、井出口川に架かる三寶橋を渡って尚も暫く歩くと、右側の道路脇に「浄土真宗 本願寺派 龍華山南殿 順興寺 納骨墓所 真照苑」と記した看板(写真@参照、ここをクリック)が立つ三叉路に出ます。ここを右折して急な坂道を登りましょう。やがて右側に寺の塀や門が現れ順興寺の門前に着きます。
由  緒:浄土真宗 (注1参照、ここをクリック)本願寺第8世の蓮如上人(注2参照、ここをクリック)が、延徳元年(1489)に河内国平潟(枚方)の蔵之谷(現在地名では大阪府枚方市枚方元町)で開創し「枚方道場」と呼ばれていた堂舎が順興寺の前身だと考えられています。
同じ延徳元年に、蓮如上人は当時山科に在った本願寺の東方へ建てた別院(南殿と呼ばれました)で隠居して、第8子(5男)の実如上人(注3参照、ここをクリック)が第9世本願寺門主の地位に就きました。
隠居したとは言え、蓮如上人はその後も積極的な布教に励まれ、明応5年(1496)には大坂の地にも隠居所としての坊舎を築かれました。これがやがて大坂本願寺へと発展するのです。
後に順興寺の初代住職実従上人となる人が、この大坂本願寺で蓮如上人の5人目の妻である蓮能尼(注4参照、ここをクリック)を母として明応7年(1498)に誕生しました。蓮如上人にとっては第27番目の子(13男)です。父の蓮如上人は応永22年(1415)の生まれで、当時84歳になっておられましたが、天明7年(1757)に刊行された拾遺都名所図会の記事に拠りますと、『幼名を九九丸と号す。父蓮如上人八十一歳の時出誕あるの謂なり』と書かれています。(蓮如上人の実際の年齢とは明らかに違いますが、敢えて引用しました。)誕生の翌年である明応8年(1499)には蓮如上人が逝去されましたので、乳児の九々丸との親子の縁は僅かに1年ほどという儚いものでした。この子は長じては賢恵と称し、いみ名を兼智と言い、左衛門督を名乗りました。
蓮如上人の死後には本願寺教団に内紛が惹起しました。永正2年(1505)に足利幕府管領職の細川政元が対抗勢力の畠山氏一族と戦端を開くにあたり、強大な戦力を持っている本願寺教団に参戦を強制し、当時の門主である実如上人が応じた事に始まります。蓮能尼は畠山氏出身であり、当時居住していた大坂本願寺周辺の摂津や河内に在住する浄土真宗門徒も、蓮能尼との繋がりで畠山氏と親密な関係を持っていたため、実如上人の所業に反発して、蓮能尼にとっては最初の男児である実顕(蓮如上人の9男で当時は17歳)を門主の地位に就けるように要求しました。
この動きに対抗して実如上人は、翌年早々に下間氏(清和源氏の血を引き本願寺の軍事を担当していた一族)の当主頼慶に大坂本願寺を武力接収させる強硬手段を採りました。これが本願寺の史上で「大坂一乱」とか或いは「河内国錯乱」と呼ばれる大事件です。この時、蓮能尼や男子の実顕・実順の兄弟と共に、未だ幼かった九々丸(後の実従上人)も含めて大坂本願寺から追放される憂き目に遭いました。
しかし大永5年(1525)に実如上人が死去して孫の証如上人 (注5参照、ここをクリック)が第10世本願寺門主になる頃には、既に追放処分が解けて山科の本願寺で寺務にあたって居られたようです。
天文元年(1532)になると、足利幕府の要人である細川晴元が、巨大化した本願寺の勢力を怖れて、京都在住の日蓮宗徒や近江の戦国大名六角定頼などを煽動して山科本願寺を包囲・焼き打ちさせました。歴史上、これを「天文法華の乱」と呼んでいます。
実従上人の日記「私心記」(注6参照、ここをクリック)同年8月24日付の記事には、この日の顛末が次のように書かれています。『日蓮宗徒側と一時停戦して和睦の交渉をしていた最中に、敵側から急襲を受けて放火され寺が焼失した。寄せ手の一部が接近したので死を覚悟したが、その後は一向に踏み込んで来ないので急いで寺中から逃れた。』
実従上人は脱出の際に一門の僧侶や門徒達の尊崇の的である親鸞聖人像を搬出し、山科の勧修寺村を経て、上醍醐報恩院の故地へ逃れました。報恩院は文明2年(1470)に大内氏の兵によって焼かれましたが、塔頭の水本坊には門主証如上人の正室の叔父源雅が居たので、その縁故を頼ったのです。(私心記同日付)更には報恩院領の笠取村(上醍醐の東側で現在地名では宇治市西笠取・東笠取など)へ隠れ、(私心記9月20日付)報恩院の伝手を頼って和束(現在地名では京都府相楽郡和束町)の谷之坊へと転々としました。(私心記10月15日付)
一方、門主の証如上人は、山科本願寺が襲撃された時点で、たまたま大坂本願寺に居たので無事でした。山科本願寺焼亡後も細川晴元に属する武士団と本願寺門徒衆の戦いは随所で繰り返されていましたが、翌天文2年(1533)の6月20日には一時的な和睦が成立し、実従上人は7月25日に親鸞聖人像を大坂本願寺へ搬入されました。この日から大坂本願寺が名実ともに発足したと考えている史料もあります(「本願寺史」)。
順興寺で頂戴した「由緒略記」の一部を以下に引用させて戴きますと、『実従上人は本願寺にあっては御影堂の鎰役(注7参照、ここをクリック)という重職を務め、それが代々順興寺の職掌ともなった。』とあります。この鎰役への補任は、実従上人が祖師像を無事に大坂本願寺へ送り届けた事に対する論功人事だったと言えるのでしょうか。
しかし、この和平は長続きせず、同年8月には早くも小競り合いが始まって、天文3年(1534)〜天文4年(1535)の「私心記」には大坂本願寺周辺での戦闘記事が幾つか記されています。
大坂本願寺における実従上人は、天文22年(1553)から、証如上人の子で後に第11世本願寺門主顕如上人(注8参照、ここをクリック)となられる少年(当時11歳)の教育係としての使命も担われていたようです。
蓮如上人が亡くなられた頃から、前記の枚方道場は順次整備されて寺院の形を呈しました。文献上では天文12年(1543)に書かれた証如上人の「天文日記」に初めて「順興寺」という名称が登場します。
更に順興寺は多くの門徒を獲得して寺の周囲には枚方寺内町を形成し、城郭めいた防衛的な機能も持つに至りました。
その順興寺へ、永禄2年(1559)12月9日に初代住職として大坂本願寺から赴かれたのが実従上人です。前記の実従上人の日記「私心記」には、順興寺における上人の日常生活や枚方寺内町の人達との交流の様子が活き活きと述べられています。
ここで再び順興寺の「由緒略記」を引用しますと、『実従上人は学問をよくし「私心記」の著者としても知られ、後奈良天皇にご進講の功により、八町四面の勅免地と二百五十石の寺領を賜わって「勅願寺」と定められた。また院家(注9参照、ここをクリック)にも指定され、南殿(注10参照、ここをクリック)の称号もそのおり賜わった。』とあります。
即ち、現在に至るまで順興寺の通称として用いられている「南殿」は、時の天皇から下賜された由緒ある称号であり、また注10で説明していますように、実従上人の父君であられる蓮如上人ゆかりの名でも有るのです。
実従上人は永禄7年(1564)に亡くなられ、実子の顕従上人が順興寺の第2世住職を継がれました。
実従上人の墓地に関しては、伝承的なものが枚方市内の2ヶ所に存在しますが、何れも明確では無く残念ながら判然としません。(詳しくは、こちらをクリックしてご覧ください→) 168附録a.「大阪府枚方市内の順興寺関連遺跡」
実従上人の没後4年が経過した永禄11年(1568)になると、本願寺にとっては困った事態が起きました。あの織田信長が岐阜から上洛を果たし、本願寺に対して「京都御所再建のため」と名目を付けて銭5000貫の寄付を要求したのです。第11世本願寺門主の顕如上人は、止むを得ずこれを呑んで支払いました。ところが大坂本願寺の立地条件が戦略的に非常に優れていることに目を付けていた信長は、更に同地から立ち退けという無理難題を突き付けました。顕如上人は当然この件には応じませんでしたから両者間の緊張関係が深まりました。
2年後の元亀元年(1570)になると、両者の間で戦闘が開始されました。事の始まりは、織田信長の上洛によって京都や畿内の地から追われ阿波の国へ逃げ帰っていた三好氏の一族が再度の上洛を図ろうとして大坂に上陸し、要地の野田・福島に砦を築いて立て籠もったのによります。
ただちに信長は反攻を開始します。織田側の史料である「信長公記」(注11参照、ここをクリック)の巻3に拠りますと、同年の8月20日に根拠地の岐阜から出撃した信長は、近江の横山、長光寺、洛内下京の本能寺などを経て、「廿五日、南方へ御働き、淀川をこさせられ、比良かたの寺内に御陣取」と記述してあります。つまり8月25日に信長の軍勢が枚方の寺内町へ陣取ったのです。この時点では寺内及び周辺で戦闘をした記録など存在しませんので、順興寺住職顕従上人を含む枚方寺内の門徒は、信長の勢威を怖れて敢えて反抗せずに彼らを受け入れた様子です。
素早い戦を旨とした信長は、翌26日に枚方寺内町を去り、敵が立て籠もっている野田・福島砦の周囲に包囲網を形成しました。両砦周辺の天満の森、川口、渡辺、神崎、上難波、下難波、海岸寄りの住吉などに夫々兵を派遣し、自身は天王寺に陣を据えました。
更に9月の8日になると、川口に砦を造って三好勢と対峙させると共に、ナンと大坂本願寺から西10町(現在のメートル法表示なら僅かに1.1kmぐらい)と記録されている楼の岸(ろうのきし)(注12参照、ここをクリック)にも砦を構築させて兵を入れ、翌日には信長自身も近くの天満の森へ本陣を移すなど、本願寺側を挑発する行動に出ました。この楼の岸砦は、後年に順興寺の顕従上人が門徒を率いて活躍する場となるのです。
情勢が緊迫しつつあった9月初め頃から、本願寺門主顕如上人は各地の門徒集団に檄を飛ばし、『この時開山の一流退転なき様、各身命を顧みず、忠節を抽んでらるべき事、有難たく候、併せて馳走頼み入り候、若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり』と本願寺に対する門徒の「忠節」を求め、且つは「若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候」、つまり『我々と一緒に戦わない門徒は破門するぞ!』との強迫めいた文章まで書いています。
記録は有りませんが後の状況から推察すると、順興寺の顕従上人は、この檄に応じて門徒と共に大坂本願寺へ参陣したのではないでしょうか。
本願寺側では、若し野田・福島が陥落したら本願寺の滅亡も有り得ると判断したのでしょうか、信長公記の記事に拠りますと、遂に9月13日の夜中、大坂本願寺から秘かに一揆衆が打って出て、楼の岸と川口の両砦へ鉄砲を打ち込んで参戦しました。一揆衆の中には、顕従上人と彼が率いる枚方寺内町の門徒達も居た可能性が有りそうに思われます。
信長公記に拠りますと、翌日の9月14日に大坂本願寺勢が天満の森の信長本陣を攻めたのですが、退けられて寺内へ戻り籠城体制に入りました。
9月16日になると、北陸から浅井・朝倉の連合軍が大津の坂本へ攻め寄せて来たので、信長は大坂本願寺に対する攻撃を中止して和議を成立させました。
これから3年後の天正元年(1573)に至るまで、大坂本願寺と信長の間で冷戦の状態は続きますが、表面上は平和が守られていました。
三たび順興寺の「由緒略記」を引用しますと、『天正元年(1573)織田信長のため、兵火によって全て焼失した。』とあります。この時期の信長公記を調べてみましたが該当するような記述は無く、順興寺「由緒略記」の記事は裏付けが取れません。
しかし、この時期以降には順興寺も枚方寺内町も存在しなかったのは確かな事実ですから、「由緒略記」に書かれているような事態が生じた理由を考えてみました。
天正元年は織田信長の侵略によって朝倉氏、続いて浅井氏が滅亡し、信長の北方経略が一段落した年です。信長は部将を越前に派遣し守護代に任じて統治に当たらせましたが、一方、本願寺の顕如上人は越前の門徒衆に命じて一向一揆を蜂起させ、信長が任命した守護代を殺害しました。これによって元亀元年(1570)に成立していた和議は破れ、翌天正2年(1574)4月に大坂本願寺が挙兵して第2次の合戦が開始されました。
このように、天正元年は第2次合戦が始まる前年という微妙な時期でした。信長側にしてみれば、本願寺側に与する惧れの強い順興寺と枚方寺内町を予め焼き打ちして、後顧の憂いを断つ必要が有ったのでしょう。顕従上人や門徒達は居場所が無くなった訳ですから当然大坂本願寺へ立ち退いたでしょう。
天正2年から始まった第2次の合戦は概ね信長方が有利な態勢で進攻しました。本願寺の一大拠点であった伊勢長島を包囲して兵糧攻め策をとり、餓えに耐えかねて出て来る者は討ち取って、籠城している者は柵内に囲んで焼き殺すなど、徹底した門徒根絶作戦を展開しました。
更に翌年の天正3年(1575)5月に長篠の合戦で武田勝頼を撃破した信長は、余勢を駆って越前の一向一揆を討伐すべく進発しました。8月15日には国境の木芽峠を越えて3万〜4万と言われる門徒衆を殺戮し、越前国における一向一揆は壊滅状態となりました。これらの敗戦によって大坂本願寺は、言わば両手をもぎとられた様な状態となり10月になると顕如上人は和睦を求めたのです。
しかし、この講和は顕如上人の一時凌ぎ策だったらしく、天正4年(1576)になると織田信長に追放されて毛利氏支配下の備後の鞆で亡命幕府を開いていた足利義昭と結託し、三度目の挙兵に踏み切りました。
本願寺反逆の報を聞いた信長は、同年4月14日に明智光秀らに命じて大坂本願寺を北・西・南の三方から包囲させました。
元亀元年(1570)野田・福島の戦いの際に、織田軍が築いた楼の岸砦は、今回は近くに根拠地を持つ大坂本願寺勢によって先取されていました。そして楼の岸砦の主将は元の順興寺住職顕従上人だった事が順興寺「由緒略記」に記されています。引用いたしますと、『順興寺2世の顕従上人は蓮如上人の寿像を守護し、門徒と共に石山本願寺に籠城、楼の岸の大将を務めました。』とあります。
天正4年(1576)7月15日に、同盟軍毛利方の野島・来島水軍が大船を仕立てて大坂本願寺への兵糧補給を図り、迎え撃った織田方の水軍を撃破して、その任を果たしました。陸上では楼の岸から打って出た顕従上人指揮下の門徒勢が織田方の佐久間軍と住吉浜で激しく戦いました。
更には順興寺の宝物として伝わる「片破尊号(かたわれのそんごう)」の説明書きに依りますと、『片破尊号として当寺に代々伝えられたこのお名号の断片は、蓮如上人の御真蹟である数の名号と称されるものの一つである。天正年間、石山本願寺と織田信長の合戦の時、順興寺2世顕従上人の身代わりとして討ち死にした武将が鎧の袖に入れていた蓮如上人のお名号であって、戦いの中でお名号は二つに切れて、残りは織田方が持ち去ったといわれる。』と、合戦に参加された顕従上人の名が此処にも書かれています。
その後の顕従上人は消息が不明で、恐らく戦死されたのではないかと言われています。ここで順興寺に関する本稿の記述も一旦途絶えざるを得ません。
織田信長が殺された後、豊臣秀吉の時代になって本願寺は京都に寺地を与えられましたが、門主一族の内紛に乗じた徳川家康の政策によって慶長7年(1602)に東本願寺と西本願寺が分立し今日に至っているのは周知の事柄です。
東本願寺の初代門主となった教如上人(注13参照、ここをクリック)は、慶長16年(1611)に順興寺の故地へ「枚方御坊」と名付けた布教道場を建てました。その後、天和2年(1682)には願生坊と称する寺院に発展し現存しています。そして願生坊前の京阪電車線路横には「蓮如上人御舊跡 舊名順興寺 谷御坊(注14参照、ここをクリック)」の文字を刻んだ石標が建っています。
一方、順興寺という寺名での再興は、寛永2年(1625)に京都二条堀川で西本願寺によって行われ「二条順興寺」と呼ばれていました。しかし不幸にも天明8年(1788)の大火によって焼失し、その後、堀川丸太町西入ルに場所を移して再興されました。
最終的には昭和49年3月に喧噪を避けて現在地の鳴滝松本町へ移転しました。

次に「やしょめ(注15参照、ここをクリック)の寺」と呼ばれる由来については、順興寺で頂戴した「蓮如忌と優女(やしょうめ)」の全文を引用させて戴きます。
『順興寺では蓮如忌に蓮如上人作と伝えられる「優女(やしょうめ)」と「黒髪」が祇園の芸妓社中によって奉納されます。
蓮如忌での奉納舞は昭和40年に遡るが、昭和50年に大阪の浄照坊(注16参照、ここをクリック)で「蓮如上人子守歌」が発見されたのを契機に、翌51年より毎年奉納されている。
「蓮如上人子守歌」に関しては、江戸の国学者清水浜臣が文政3年の2月から9月初旬にかけて、京坂奈良伊勢を漫遊した折の紀行文「遊京慢録」の中で『京都丸太町堀川西入る、順興寺と云う浄土真宗の末寺あり。此寺に蓮如上人の作りたまヘリとて、自らの筆して書き遺し給いし子守歌と云うものあり。文調いと古雅にして、いにしへの京地のさま思いやらるゝなり。』とあって「蓮如上人子守歌」が書き写されている。
この子守唄と称されているものの前半は、京の町における物売りの品目、様態、売り言葉の列挙であり、後半は遊女と客の交渉が展開されていて、蓮如書留の「京の町」とも呼ぶべき内容である。「ヤショウメヤショウメ、京の町にヤショウメ、ウッツルモノヲミショウメ」と始まるが、それは中世の千秋万歳が歌った曲目の一つの「京の町」そのものである。
禁中では正月の初めに万歳が参入し「京の町」を演じたことが知られています。蓮如上人の存命中に千秋万歳が本願寺で演じられたという記録はありませんが、色々な芸能者が本願寺に来て演じたことは考えられ、上人が書留、愛誦した「京の町」がわずか1年ばかりの末子実従との生活の中で「子守歌」として伝承されたとも考えられる。実従上人の書き残された「私心記」の中には本願寺で千秋万歳が演じられたことが二度記録されている。
現在、当寺での「やしょうめ」の奉納舞は井上八千代振りつけの地唄舞「万歳」である。』
順興寺では蓮如上人の忌日である3月25日に近いという理由(新暦では5月になりますが…)で、春分の日に蓮如忌法要を勤めておられます。(具体的には同寺へお問い合わせください。)平成20年3月20日の法要後には、「祇園房の家 芸妓社中」による「やしょめ(優女)の唄と踊り」が例年どおり奉納されました。

注1:浄土真宗:順興寺が枚方に在った当時の宗派名については、歴史上「浄土真宗」「一向宗」の両方が出て来て紛らわしいのですが、蓮如上人自身が「御文章」の中の「宗名の章」で『私たちは自分からは「一向宗」と言わずに「浄土真宗」と呼ぶべきであろう。』と明確に述べておられますので、本稿では「浄土真宗」に統一記述します。 由緒へ戻る
注2:蓮如上人:応永22年(1415)に存如上人の長男として生まれました。浄土真宗第8世の門主となり、同宗を中興した傑僧と仰がれる人物です。親鸞聖人によって開かれた浄土真宗は、未だ独立した宗派として世間に認められておらず、天台宗の末寺のような扱いで命脈を保っておったに過ぎません。蓮如上人は独自の宗論を唱えて天台宗からの独立を図ったので、比叡山山門衆徒の暴発を招き、寛正6年(1465)には大谷の廟堂を破却されて京都を追われました。その後は近江に居住していた門徒の許を遍歴し、文明3年(1471)に至って越前の吉崎御坊を建立、北陸地方への教線を大いに拡げました。文明12年(1480)になると、京都洛外の東山を越えた地を選んで山科に本願寺を築きました。本文記載のとおり、延徳元年(1489)には実如上人を第9世本願寺門主の地位に据えて、自身は南殿と呼ばれる別院へ隠居しました。更に明応5年(1496)には隠居所を大坂の石山にも設け、将来の大坂本願寺へと発展する礎となりました。子福者としても著名で、生涯に5人の妻(何れも前妻の死後に娶られた正妻です)との間に27人の子を儲けられました。最終的には山科本願寺へ還って明応8年(1499)に85歳で亡くなりました。朝廷からは慧燈大師(えとうだいし)の諡号が贈られました。 由緒へ戻る
注3:実如上人:長禄2年(1458)蓮如上人の5男として生まれました。延徳元年(1489)32歳で父の蓮如上人から寺務を譲られ、第9世本願寺門主に就任しました。先代の教線拡大方針を概ね継承した路線で全国規模の教団組織を築きあげました。大永5年(1525)に68歳で卒去されました。 由緒へ戻る
注4:蓮能尼:本稿で扱う順興寺の初代住職に就いた実従上人の母です。寛正2年(1461)に、能登国羽咋郡の西谷内城主、畠山政栄の娘として生まれました。21歳の時に祖父のような年齢の蓮如上人に嫁ぎ5男2女を生みましたが、実従上人は彼女にとっても蓮如上人にとっても最末子にあたります。永正15年(1518)に山科本願寺別院の南殿で亡くなりました。享年58歳でした。 由緒へ戻る
注5:証如上人:実如上人の孫にあたります。実如上人の第3子であった円如上人の長男として永正13年(1516)に生誕しました。父君の円如上人が実如上人より早く逝去し、その実如上人も大永5年(1525)に永眠したので、僅か10歳の証如上人が第10世本願寺門主を継がれました。本文記載のとおり、天文元年(1532)に「天文法華の乱」が惹起して山科本願寺が焼失したので、証如上人は本拠地を大坂本願寺へ遷して堀や塀を厳重に巡らし、後世に起きた「本願寺合戦」で織田信長の猛攻に耐える城郭的な寺内町を形成しました。また証如上人は、朝廷との関係を好くして本願寺の社会的地位を向上することにも努力を払ったのですが、天文23年(1554)に享年39歳で早世しました。 由緒へ戻る
注6:私心記:順興寺初代住職実従上人の日記です。実従上人が35歳の天文元年(1532)から筆を起こされ、亡くなる3年前の永禄4年(1561)まで書き続けたものです。由緒へ戻る
注7:鎰役:鎰は(かぎ)と読みます。この場合の鎰役は「御影堂の鍵を開け閉めする役目」といった単純業務ではなく、御影堂全体の管理権限を持った重要な役割だと推察します。由緒へ戻る
注8:顕如上人:天文12年(1543)に第10世本願寺門主の証如上人の長男として生誕しました。父の証如上人が早く亡くなったので、12歳の幼さで第11世本願寺門主の地位を継ぎました。長じては大坂本願寺を中心に畿内各地へ本願寺系の寺院を配置し、軍事力も強化して大名並の権力を持つに至りました。このような時期に本願寺にとって大敵が登場します。永禄10年(1567)に斎藤龍興を美濃国から駆逐して「天下布武」の朱印を用い、全国制覇を目指す織田信長が永禄11年(1568)に上洛を果たして、京都御所再建費用の名目で巨額の銭を本願寺から寄付させ、更には大坂本願寺の立ち退き要求を突き付けたのです。本願寺側は当然の如く立ち退き要求を拒否し、元亀元年(1570)には顕如上人が「織田信長は仏の敵である」と宣言して本願寺門徒に檄文を出し、戦闘状態に入りました。この戦いは断続的に天正8年(1580)まで10年に亘って続き、大坂本願寺が石山と呼ばれる丘の上に立地していたところから世に「石山合戦」などと呼称されています。天正8年3月、正親町天皇の勅命という形によって講和が成立し、顕如上人は徹底抗戦を叫ぶ嫡子の教如を大坂本願寺に残して自らは紀伊国の鷺森別院へ退去しました。本能寺の変によって織田信長が死去すると、新しい権力者となった豊臣秀吉とは和解し、天正13年(1585)に大坂の町中へ戻ります。更に天正19年(1591)になると京都七条堀川の寺地を秀吉から与えられ、本願寺教団の復興に取り組みました。文禄元年(1592)に50歳で薨去。 由緒へ戻る
注9:院家:別院の僧であって、本寺の寺務を補佐する役目を持ちます。由緒へ戻る
注10:南殿:蓮如上人は文明12年(1480)山科に本願寺を再興して布教の本拠地としましたが、本文記載のとおり延徳元年(1489)に東方の音羽に設けた別院へ移り隠居しました。それ以後は山科本願寺を「北殿」と呼ぶのに対して、別院を「南殿」と称しました。本願寺と別院の地理的位置は「西」と「東」であって、何故に「北殿」「南殿」というネーミングが為されたのかは不明です。「北殿」「南殿」は共に天文元年(1532)に起きた「天文法華の乱」によって焼き討ちされ消滅しましたが、近年の発掘調査によって実態がかなり判明しています。一方、後年に枚方で開山された順興寺に対して、後奈良天皇から「南殿」の称号を賜わった事が本文に引用した「順興寺由緒略記」に記されています。その経緯は明らかではありませんが、実従上人の父である蓮如上人が隠居所「南殿」に住まわれた事、更に母の蓮能尼が「南殿」で逝去された事などを考え合わせますと、実従上人側から朝廷に対して「南殿」という称号を下賜されるように請願したのではないか?と思われます。由緒へ戻る
注11:信長公記:織田信長についての有力史料として、歴史学者の方々なども度々引用されている信長公記を執筆者も利用します。「信長公記」は、織田信長の直臣で信長の死後には豊臣秀吉にも仕えた太田和泉守牛一が、信長の戦記や日常などを、つぶさに書いた書物です。作家の榊山潤氏が現代文に翻訳されたものが、株式会社ニュートンプレス社から発行されていますので、一部を引用させて戴きます。由緒へ戻る
注12:楼の岸:大坂本願寺が織田信長と闘った当時の戦略的重要拠点の一つです。現在の大阪城天守閣を起点として位置を求めますと、概ね西方向へ約1.1kmの地点に設けられた北大江公園の北側(大阪市中央区石町1)に現存する急崖地が、これに相当します。(詳しくは附録b.「楼の岸の所在地を探る」を見てください。 ここをクリック
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注13:教如上人:永禄元年(1558)に生まれました。第11世本願寺門主顕如上人の長男で一旦は第12世の本願寺門主となりました。元亀元年(1570)に大坂本願寺と織田信長との間で世に言う「石山合戦」が開始されると父と共に戦いました。しかし、天正8年(1580)に正親町天皇の勅命で講和が成立した時の条件に従い、顕如上人は大坂本願寺から退去したのにも拘わらず、教如上人は一部の門徒と共に立て籠もって抗戦を続けました。そのため顕如上人は教如上人を義絶して門主の地位を奪います。その後は畿内や周辺諸国の門徒を頼って流浪する破目に陥りましたが、信長の死後には父の顕如上人と和解が成り、文禄元年(1592)に顕如上人が死亡すると、再び第12世本願寺門主に返り咲こうと図りました。ところが当時の実力者となっていた豊臣秀吉は、前記の経緯を踏まえて教如上人は本願寺の後継者として相応しくないと判断し、異母弟の准如上人を改めて第12世本願寺門主に指名しました。豊臣秀吉が死んだ後に政治の実権を握った徳川家康は、本願寺門徒に苦しめられた過去の苦い経験を踏まえて教団を分裂させる事を企図します。即ち後陽成天皇の勅許という切り札を使って、七条堀川の本願寺と目と鼻の先に在る七条烏丸の寺地を教如上人に与え、門徒の所属を東本願寺と西本願寺に分裂させたのです。教如上人は慶長19年(1614)に亡くなりました。由緒へ戻る
注14:谷御坊:順興寺の所在地は、当時「蔵之谷」と呼ばれていた谷間であった為に、「谷御坊」の通称が用いられといたようです。由緒へ戻る
注15:やしょめ/やしょうめ:順興寺で頂戴した資料には「蓮如忌と優女(やしょうめ)となっておりますが、現在は順興寺でも一般的には「やしょめ」と書いておられますので、本稿では「やしょめ」を用いました。
なお、順興寺以外の資料では「やしょめ」に「八瀬女」の漢字を当て嵌めているものも散見されるので、次の様にも考えられます。
@.洛外の八瀬から薪などを売りに京へ来る女性が流布させたと伝わる(実際には八瀬の女性と関係が無くても)歌謡が存在した。
A.この歌謡を、布袋丸(蓮如上人の幼名)の生母か或いは育ての親となった人が子守歌代わりに聞かせた。
B.幼心に残っていた子守歌を蓮如上人は明確に記憶されていて、曾孫の様に歳の離れた幼子の九々丸(実従上人の幼名)に対して歌い聞かされたのではないだろうか。由緒へ戻る
注16:大阪の浄照坊:浄土真宗本願寺派、つまり西本願寺に属する寺院で、現在は大阪市天王寺区真田山に在ります。蓮如上人の弟子であった法円上人が開いた寺で、当時の大坂本願寺に関連する史料が伝来されています。由緒へ戻る

(上図に掲載した通称寺:こちらをクリックしてご覧ください→) 44.鳴滝の妙見宮 16801 @国道162号線の右側に写真の様な看板が立っており、cで進行方向を示してくれます。また、44.鳴滝の妙見宮(三宝寺)の石標や看板なども見受けます。

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16803 B写真Aの掲示板左端に「やしょめ」の由来などがを記してあります。
16805 D山門に向かって左側の郵便受の上には、大きな文字で南殿と通称が記されています。
16807 F山門を潜ると正面が庫裏です。

16809 H本堂の左手、低い位置に建つのは納骨墓所の真照苑です。
16811 J真照苑の左前方に建つ石碑には「大僧都実従兼智法印碑」の文字が表面に刻まれています。また、裏面には「大正六年六月建之」とありますので、堀川丸太町西入ルの故地から移建されたものです。
16813 L本堂中央に祀られている阿弥陀如来立像です。

16815 N山門には幡幕が設えてありました。
16817 P法要が厳修された後、祇園房の家社中によって奉納舞が演じられました。最初に舞われたのは妖艶な仕草の「黒髪」でした。
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16802 A写真@の看板の下には、この掲示板が立ててあります。最上部に「蓮如上人 御旧跡 やしょめの寺」と通称が記してありました。また、最下部には「浄土真宗 本願寺派 龍華山 南殿 順興寺」と、もう一つの通称も書かれています。
16804 C写真@のcに従って右折し、坂道を上がって行くと、やがて順興寺山門に着きます。
16806 E更には山門の右柱に「龍華山 南殿 順興寺」と刻んだ木の札が取り付けてあります。
16808 G庫裏の前に立って左側を見ると、階段の上に本堂が聳えています。
16810 I本堂と真照苑の中間前方には、「蓮如上人御像」が設けられています。
16812 K本堂に上がって、お参りさせて戴きました。現在の寺域へ移転してから既に30年以上が経過しているのですが、新しくて綺麗な本堂です。

16814 M蓮如忌法要の当日にお参りさせて戴きますと、写真Aの掲示板には張り紙が為されていました。
16816 O本堂内の掲示です。
16818 Q次の舞は蓮如上人ゆかりと伝わる「優女(やしょうめ)」です。こちらは扇を翳してかなり動きの激しい舞でした。以下の写真もご覧ください。
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附録a.「大阪府枚方市内の順興寺関連遺跡」を見るには ここをクリック
附録b.「楼の岸の所在地を探る」を見るには ここをクリック
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