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167.元真如堂
167.元真如堂
寺院名:換骨堂(かんこつどう)
通称名:元真如堂(もとしんにょどう)【非】
所在地:京都市左京区浄土寺真如町82−2
電  話:075ー771‐6351
バス停:錦林車庫前
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道案内: 右の地図に朱線で示すとおりにバス道を北へ進み、白川に架かる馬場橋の手前で川沿いの道(バック気味)へ左折します。馬場橋より一つ下流の日吉橋(現地に橋名の表示は無いようですが…)を渡りますと、突き当たりに見える生垣内が換骨堂境内になります。(写真@A参照、ここをクリック)
由  緒:「97.真如堂」が神楽岡と呼ばれる丘陵の頂稜部から西斜面一帯に拡がって、幾つかの塔頭を従える大寺院であるのに対して、ここで述べる通称「元真如堂」は同じ神楽岡の東麓の一角のみを占める小寺院です。文字が示すとおり「真如堂」は草創期から或る時代までは現在の通称「元真如堂」の位置に存在したのです。
かように「真如堂」と「元真如堂」は紛らわしいので、クドクドしい記述になることをお許し願います。
さて、前記の道案内に従って生垣内へ入りますと、すぐ右横に写真Tの駒札(ここをクリック)が立ててあります。ご覧のように冒頭に『元真如堂(換骨堂)  真如堂の境外塔頭で、またの名を換骨堂と呼ばれている。』と書いてありますが、これは明らかに間違っています。
先ず、現在の山名・院名・寺院名は写真U(ここをクリック)で明白なように「東向山 蓮華院 換骨堂」であって、「元真如堂」のほうが「またの名≒通称」という位置づけになります。
また、換骨堂は曹洞宗に所属する寺院です。「曹洞宗近畿管区教化センター」様のHP内、「寺院案内」の京都府の中には「寺院名 換骨堂」「所在地 京都市左京区浄土寺真如町82ー2」と明記されています。従って「曹洞宗の換骨堂(通称元真如堂)」が「天台宗に属している真如堂」の境外塔頭という事実はあり得ません。
「元真如堂」とは文字通り 『現在の真如堂(真如堂という呼び名自体が既に「真正極楽寺」という寺の通称ですが…)』が「元」在った場所だという意味の通称です。「真如堂」は室町時代の末期頃まで、現在は「元真如堂」と通称されているこの場所に建っていたのです。今の換骨堂は「元」の「真如堂」の跡地に建った寺院だという事になります。
「真如堂」の縁起を、江戸時代末期の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」に収録されている「鈴声山真正極楽寺真如堂 解説文」を現代風に解釈し、私見も加えながら辿ってみましょう。(資料引用:国際日本文化研究センター 平安京都名所図会データベースから)
承和5年(838)から中国大陸の唐へ渡り求法の旅を続けていた比叡山延暦寺の僧侶円仁が、承和14年 (847)に日本へ帰る船中での出来事です。唐の五台山で習い覚えた引声念仏の一曲を失念したので、焼香礼拝し祈請を凝らしたところ、虚空から船の帆へ小さな阿弥陀如来立像が影向(注1参照、ここをクリック)され、忘れていた曲を教えてくださいました。円仁はその面影を袈裟に包み取って帰りました。
帰国後、かって天長年間(824〜834)に近江国志賀郡の苗鹿明神(注2参照、ここをクリック)から給わっていた栢(かや)の木柱が半分残っていたのを使用して、記憶していた影向の阿弥陀如来像を彫刻したと伝わります。この阿弥陀如来像は九品来迎印 (右手は第一・第二指を捻じ、左手は第一・第二・第三指を捻ずる) を結ぶ3尺3寸の立像です。最後の工程として円仁が仏像の眉間に白毫(注3参照、ここをクリック)を入れようとされ、「比叡山の常行堂で四種三昧の行(注4参照、ここをクリック)を勤める行者の守り本尊になって戴きたい。」旨の祈願をされると、かの阿弥陀如来像は首を横に3回振って拒否の態度を示されました。そこで円仁が「しからば京洛の市中へ下って衆生を極楽へ導き給い、特に罪障の重い女人を救い給うでしょうか」と言われますと、この時は首を3回縦にして頷かれた様子でした。
その後、この阿弥陀如来像を洛中で安置すべく霊地を求められましたが、未だ決せぬ中に年月を経過したので、先ず比叡山の常行堂へ仮安置されました。
貞観6年(864)に円仁が亡くなられ、貞観8年(866)に清和天皇から「慈覚大師」の諡号を贈られてから100年以上が経過した後の永観2年(984)春の事を以下に述べます。
当時比叡山の住僧に戒算上人(注5参照、ここをクリック)という人が居ました。この人の夢に老僧が現れ告げられました。「我はこれ常行堂より来たるなり。市中に出でて一切の群生を利益し、殊に女人を度すべし。急ぎ下山せしむべし。」と言われました。
この様な事が度々に及び、霊験的なお告げであるのは明らかなので、戒算上人は比叡山全山の衆徒を招き、しかじかの話であると披露しましたが、三山(注6参照、ここをクリック)の衆徒の中には信じない者も居ました。反面、慈覚大師在世中にも阿弥陀如来像が示された霊験(前述)であるから押し留めるのは如何かと言う者も有りましたので、遂には比叡山西の雲母坂の麓に在った地蔵堂に遷し奉りました。
この夜、またも戒算上人の夢の中に老僧が来られて言いました。「山城国神楽坂の辺りに長さ尺余の檜一千本、一夜に生ずる所有るべし。これ即ち仏法有縁の所、末世相応真正極楽の霊土なり。」(脚注:今、真正極楽寺の号は、この霊夢の故なり。)
戒算上人が霊夢に驚き弟子を下山せしめて見させますと、白河(注7参照、ここをクリック)に在る東三条女院(注8参照、ここをクリック)の殿舎の境内に檜が出生していました。現在の元真如堂の敷地が此処に当たります。
また、その夜、東三条女院の夢にも老僧が来られて仰いました。「我は叡山常行堂より来たれり。女人済度の請願によりて聚楽に下る。后の殿中に至らん。」と告げられたのです。
この霊夢に女院が驚かれて比叡山へ使いの者を遣わされました。一方戒算上人も檜出生の事実を確かめようと麓へ下山されました。双方は雲母坂で出会ったので互いの霊験の様子を語り合って別れました。
暫く経って後に、先ず女院の殿舎の中へ阿弥陀如来像を遷し奉りました。この時は一条天皇の御代、正暦3年(992)の秋でした。その後この地に仏閣が建てられたのです。
草創の時、一人の童子が蓮華織の錦の嚢に土を包んで持って来て戒算上人に告げました。「これは天竺王舎城耆闍崛山(てんじく おうしゃじょう きじゃくつさん)(注9参照、ここをクリック)の土です。釈迦が観無量寿経を説き給わった時、無数の衆生が法を聴いて真の道を知り得ました。かつ頻婆娑羅王(ひんばしゃらおう)や韋提希夫人(いだいけぶにん)(注10参照、ここをクリック)は往生を遂げ、阿闍世王(あじゃせおう)(注10参照、ここをクリック)も善い道に入ることが出来ました。釈迦がその説法をされた際に座られた下の土です。我は長く当山を擁護します。上人の慈悲真正真如(これにより「真如堂」の通称が生じたようです。注11参照、ここをクリック)の真心を観じた故に来現したのです。七宝の壇を築いて、この霊土を収め、その上に阿弥陀如来像を座せしめ奉れ。」と言ったのです。
戒算上人は信じ敬ってこれを受け、阿弥陀如来像の両足の下に収めました。
また、童子が曰くには「我が名は蓮華童子(注12参照、ここをクリック)と称します。阿弥陀如来像の台座の下の山に醍醐味の清泉が有るでしょう。仏閣の後門の中に閼伽井を掘ってください。その辺りに住みましょう。」と言い終わって去りました。
これに拠って井戸を掘りますと清泉が湧出したので、童子の教えに任せ清泉の所を寺の門と見立て、霊土を壇上に納めて、その上に御厨子を建立し正暦5年(994)8月11日に阿弥陀如来像を遷座し奉りました。
そして女院は御自分の殿舎を寺院に造り変え、荘厳珠玉をちりばめて寄付されましたが長保3年(1001)に亡くなられました。
戒算上人は住職となって天喜元年(1053)正月27日に遷化されました。寿齢91歳でした。
時代が遙かに下った応仁2年(1468)、いわゆる応仁の乱の戦禍に巻き込まれて、本尊阿弥陀如来像は比叡山の青龍寺へ遷座され、これから真正極楽寺にとって受難の時代が始まりました。
文明2年(1470)には本尊が更に近江国穴太の寶光寺へ移され、文明10年(1478)には、洛中一条の何処かに戻されました。
文明16年(1484)になると東山に隠居していた足利義政の尊崇を得て、神楽岡東麓の旧寺地(即ち現在の通称「元真如堂」辺り)への本堂再建が決まりました。工事中の地へ本尊が帰座され、明応2年(1493)には本堂の竣工をみました。
ところが永禄10年(1567)になりますと、後に室町幕府最後の第15代将軍となる足利義秋(永禄11年に義昭と改名)が、真正極楽寺を第13代将軍だった実兄義輝の菩提寺と定めたため、永禄12年(1569)には一条通北側の地(現在地名では京都市上京区一条通新町西入ル北側元真如堂町で、上京税務署の敷地から一条通を挟んだ北側に相当します。)へ移転しました。
それ以後も真正極楽寺は権力者の意思による強制移転や、火災〜再建といった事態が繰り返されますが省略します。最終的に現在の寺地である神楽岡頂稜部から西麓に掛けての地域に落ち着いたのは元禄6年(1693)以降です。以後は江戸時代末期に掛けて徐々に現在の寺観が整備されました。
そして神楽岡東麓の旧寺地は「元真如堂」と通称されるようになり、僅かに残った念仏堂が存在していました。その念仏堂も天保元年(1830)の地震で倒壊しましたが、同13年(1842)に黙旨という尼僧が中心となって再興し、何時の頃からか換骨(注13参照、ここをクリック)堂という寺院名を称するようになりました。現在の換骨堂においても尼僧が住職を務めておられます。

注1:影向(ようごう):如来や菩薩または神などが仮の姿をとって人々の眼前に現れることを云います。由緒へ戻る
注2:苗鹿(なはか)明神:滋賀県大津市苗鹿1丁目8―1に現存する「那波加(なはか)神社」の事です。太古の頃、主祭神の天太玉命(あめのふとだまのみこと)が農作業をしていると、鹿が現れ稲の苗を背負って運んだので「苗鹿(なはか)」という地名となり、「なはか」に当て字して「那波加」神社と称したのです。由緒へ戻る
注3:白毫(びゃくごう):仏像の眉間に付いている小さな円形のものです。本来は右巻きの螺旋状の白い毛ですが、実際には代用品が使われたり、或いは付けなかったりします。由緒へ戻る
注4:四種三昧(ししゅざんまい)の行:隋の高僧天台大師(538〜597)によって著わされた禅の指導書「摩訶止観」の中で説かれている「常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧」と称する四種類の行です。常坐三昧(一行三昧)=90日間座り続ける行。常行三昧(仏立三昧)=90日間阿弥陀如来像を周回しながら念仏する行。 半行半坐三昧=阿弥陀如来像の周りを歩く行と、座る行を44日間(または28日間)修します。非行非坐三昧(随自意三昧)=特に定めず、生活自体が修行となります。行の期間や方法が定まっておらず、形式を超えて本質に通じなければなりませんので、最も高度で難しい修行と言われています。由緒へ戻る
注5:戒算上人:江戸時代の元禄15年(1702)に刊行された「本朝高僧伝」に記述があるものの、真如堂の開基となる以前の経歴や出自などは不明とされています。 由緒へ戻る
注6:三山:比叡山延暦寺は今も東塔、西塔、横川の3地区に分かれています。それを、ここでは三山と記述しています由緒へ戻る
注7:白河:現在の河川名は白川です。由緒へ戻る
注8:東三条女院:藤原兼家の次女で、藤原詮子(「ふじわら の せんし」或いは「あきこ」)と言う名でした。応和2年(962)に生まれ、天元元年(978)に円融天皇の後宮に入って女御となります。同3年(980)には父の藤原兼家が所有していた東三条邸で懐仁親王を生みました。ところが当時の関白であった藤原頼忠の娘の藤原遵子が皇子を生んでいないのにも拘らず天元5年(982)に皇后の地位を得たのを嫉妬し、父の兼家と共に天皇を恨んで幼い懐仁親王を擁し、東三条邸に籠って度々天皇が召しても応じなかったと伝わっています。しかし永観2年(984)に円融天皇が退位して、その甥の花山天皇が即位すると、懐仁親王は叔父である花山天皇の皇太子となりました。2年後の寛和2年(986)には花山天皇が突然に内裏を抜け出して出奔、出家するという椿事が出来し、数え年僅か7歳の懐仁親王が即位して後に一条天皇と呼ばれます。(一連の事態は孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀と言われています。)実子懐仁親王の即位に伴い藤原詮子は一躍して皇太后の称号を得る事になりました。夫であった円融院が正暦2年(991)に亡くなりますと、彼女は出家して居宅の東三条邸に因んで東三条女院と称しました。(女院という呼び方の嚆矢であるとされています。)また、本文に記載したとおり白河(白川)の辺りに別邸を持っていたので、白河女院とも呼ばれていたようです。(「花洛名勝図会」に収録されている「鈴声山真正極楽寺真如堂 解説文」でも、この呼称が用いられています。)長保3年(1001)に40歳で亡くなりました。由緒へ戻る
注9:天竺王舎城耆闍崛山(てんじく おうしゃじょう ぎしゃくつせん):釈迦が生存していた時代には天竺(現在のインド)のガンジス川流域に16ヶ国が有ったそうです。その中の一国であるマガダ国の首都が王舎城で、釈迦の伝道活動の拠点の一つでした。現在地名ではラージギルです。王舎城内には耆闍崛山または霊鷲山(りょうじゅせん)と呼ばれる低い山があり、釈迦が「無量寿経」「観無量寿経」「法華経」などの大乗経典を説いた地だと言われています。由緒へ戻る
注10:頻婆娑羅王(ひんばしゃらおう)、韋提希夫人(いだいけぶにん)、阿闍世王(あじゃせおう):頻婆娑羅王は注9に述べたマガダ国の王で、韋提希夫人はその妻、阿闍世は二人の間の子です。阿闍世は長じてから父の王を牢獄に幽閉して自らが王位に就きました。ところが牢獄に閉じこめられた頻婆娑羅は、食事を与えられないのに何時まで経っても餓死する様子が有りません。これは韋提希が身体に食べ物を塗り込んで夫に与えていたからです。父が死なない理由を知った阿闍世王は母も牢獄へ閉じ込めてしまいました。そして頻婆娑羅と韋提希は子によって殺されたことになりますが、生前から釈迦の説法を聞いていたため、往生を遂げる事が出来ました。また、子の阿闍世も釈迦の説法を受けて改心したとされています。これらの事は「観無量寿経」の中で説かれており、人は善人か悪人であるかを問わず念仏を唱える事により阿弥陀如来の浄土へ往生できるとされています。由緒へ戻る
注11:真如:「元真如堂」「真如堂」の通称の中にも用いられている仏教用語です。この世界の「真実で、ありのままの姿」を意味します。由緒へ戻る
注12:蓮華童子:不動明王の侍者の一体とされます。通常の不動明王像には矜羯羅(こんがら)、制咤迦(せいたか)の二童子を脇侍とするものが多いのですが、これに蓮華童子を加えて三童子を配する場合が稀に有ります。由緒へ戻る
注13:換骨:文字どおり「骨に換わる」ことを意味します。現在の仏教式火葬では骨 上げ後に「換骨回向」を執り行う場合もあります。「換骨堂」も「換骨回向」や「換骨法要」が行われた寺院だったのかも知れません。由緒へ戻る

(上図に掲載した通称寺:こちらをクリックしてご覧ください→) 97.真如堂 96.紫雲石 94.くろ谷さん 95.熊谷堂 16701 @道案内に記した日吉橋の手前から撮りました。左手前の白いパイプで形成された物は日吉橋の欄干で、この下には白川が流れています。中央の最奥に見えるのが元真如堂の生垣や境内の樹木です。
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16703 B生垣内側の参道へ進みますと、右側に写真Tで紹介済みの駒札(ここをクリック)が立っています。また、参道左側に小さな石標が蹲る様に建っており、表面の文字は「元真如堂 念仏堂旧跡」と刻んでいます。本文に記しましたように、真如堂は永禄12年(1569)に洛内へ移転したので、この地が「元真如堂」と通称されるようになって、境内の「念仏堂」のみが残存していました。しかし、天保元年(1830)の地震で倒壊しました。この石標はこれらの歴史を踏まえて建立されたものでしょう。
16705 D本堂の扁額です。崩し字で「換骨堂」と書かれています。
16707 F本堂に向かって左横へ進みますと小さな広場に出ます。広場の右(北)端の小高い所に五輪塔が建っています。東三条女院の供養塔だと言われています。
16709 H祠に祀られている石造の不動明王像です。矜羯羅、制咤迦の二童子のみが脇侍として刻まれて、蓮華童子の姿は無いようです。
16711 J右端に近い所に写真Iの蓮華水の井戸が写っています。数m左の階段から先は隣接する日吉神社の境内地となります。階段右上の高い所に本殿を囲む透かし塀が見えます。日吉神社の前身は真如堂の鎮守社として勧請された「山王祠」で、真如堂の移転後も元真如堂境内に残っていました。そして明治時代初期に行われた神仏分離政策により、独立した神社となったのです。多くの寺社では隣接していても行き来出来ない状態が多いのですが、ここでは元真如堂と鎮守社の関係を示すように今も通路が確保されています。
16713 L日吉神社の正面の石鳥居と参道です。参道の突き当たりを右折すると拝殿に至ります。
16715 N写真Aの位置で右の道路を撮りました。元真如堂外周の生垣沿いに左へ曲がると写真Oに続きます。
16702 A写真@の日吉橋を渡り、道を奥へ進むとこちらの生垣の前に出ます。短い参道の先にお堂が覗いています。左端の石標は日吉神社のものです。ここから画面左方向に神社の境内地が拡がっています。
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16704 C小さな山門を潜るとすぐ前に本堂が迫ります。本堂の左側に連なる客殿と逆の右側に繋がる庫裏・住居部分が境内に存在する建物の全てです。








16706 E客殿に懸かる扁額です。「蓮華岡」とあるのは蓮華童子に因んだものでしょう。
16708 G広場左(南)端の山際には大きめの祠が在ります。扁額には「蓮華岡 石不動明王」と記されていました。祠の下側には蓮華水の井戸枠が見えます。
16710 I蓮華童子の託宣に基づいて掘られたと伝わる蓮華水(閼伽井)の井戸枠を拡大して撮りました。比較的新しい時期に改修が行われたと見受けられます。
16712_2 Kこちらは、日吉神社境内に掲げられた「山王大権現 日吉神社 御神徳」の立札の前半部です。ご覧のように真如堂の鎮守であった事は全く触れられていませんが、記事の冒頭に『霊峰比叡山より日吉山王 国常立尊の二神を勧請して、御鎮座ねがいお祀り申し上げる当社は、平安時代末期より「魔除けの神」として崇敬を受けております。』と書かれていますので、その頃には山王祠が当地へ勧請・創建された可能性が有りそうです。


16714 M日吉神社拝殿と本殿は石段を上がった所に建っていました。本殿の右寄りが写真Jの位置になります。
16716 O写真Nに示した道の続きです。緩やかに上っていくと97.真如堂へ行けます。























































































































































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右は元治元年(1864)に刊行された『花洛名勝図会』所載の「元真如堂 東三条女院塔」と題した図絵ですが、読み難い文字の一部は大き目の活字で書き変えました。
絵の左端中央部に「半山画」とありますので、この頃に挿絵画家として活躍していた松川半山(文政元年[1818]〜明治15年)の筆によるものです。
図の最下部左端から斜め上へ書かれている道には荷を運ぶ牛や御者、そして天秤棒を担いだ人などが画かれたいますが、牛の進む先には白川が流れている筈です。道の突き当たり奥には元真如堂(現在の換骨堂)の小さな山門が建っており、左の燈篭側へ行くと山王祠(現在の日吉神社)の参道になります。三叉路の右側を採ると寺域の端で道は左へ曲がります。少し先の左側に寺の裏門が開いていますが、現状もこの辺りに裏門が存在します。道の行き先は画面の右端で途切れますが、上部に「真如堂門前へ出」と書かれています。このように道路や寺の外周は当時も現状と大きな変わりが有りません。
山門の内部へ眼を向けてみましょう。
山門の正面に本堂が在るのは現状と変わりませんが、屋根の軒先部分のみが瓦葺で本体は茅葺です。また、現状では向かって左に客殿が、右側には庫裏が延びているようです。
本堂の向って左側には「東三条女院塚」と説明された五輪塔が、更に左に「不動尊」の文字と祠が画かれていて、この辺りも現状と概ね同じです。
不動尊の祠の前には四方吹き放しの建物が画かれ、「るりだん」と書かれています。仏典に云う七宝は経典によって説が分かれますが、「無量寿経」で説かれる阿弥陀世界では金・銀・瑠璃(るり)などが含まれますので、「るりだん(瑠璃壇)」は阿弥陀の浄土を意味します。「るりだん」の建物内には井戸が画かれていますので、ここに蓮華童子の託宣に基づいて掘ったと伝わる蓮華水(閼伽井)が湧出していた訳で、当時のような覆い屋は存在しませんが現存の井戸枠とほぼ同じ位置のようです。
「るりだん」の左横、高い位置に「山王祠」が画かれていて、前の石段を降りると先に述べた燈篭の在る参道へと続いている様子が見てとれます。
以上、見てきましたように、約150年前の寺の様子と現在のそれは、驚くほど似通っているのです。
なお、図絵の上部には二つの俳句が載せられています。右側は「たそがれや 杉に抱きこむ やまざくら 梅室」とありますので、当時の京や江戸で活躍していた「桜井梅室」の句であると判ります。左側は「もらさじと 結手すずし 醍醐水 名古屋 攸尚」と書かれています。作者の「攸尚」については存じませんが、「名古屋」と断っていますので、いわゆる地方俳壇に属する人であったのかな、と考えます。(資料引用:国際日本文化研究センター 平安京都名所図会データベースから)

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