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44.鳴滝の妙見宮
44.鳴滝の妙見宮
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寺院名:三宝寺(さんぽうじ)
通称名:鳴滝の妙見宮(なるたきのみょうけんぐう)【非】
所在地:京都市右京区鳴滝松本町
電  話:075−462−6540
バス停:三宝寺
04400
道案内:バスは国道162号線、いわゆる周山街道を走ります。三宝寺バス停から右図朱線に従って緩い坂道を高雄方向へ歩き、井出口川に架かる三寶橋を渡って行きますと、しばらく先で「三寶寺」を示す石標や看板(道案内@の写真参照、ここをクリック)に出会います。右折して急坂を登り三宝寺へ向いましょう。
やがて右側に寺の塀や門が現れますが、これは浄土真宗本願寺派順興寺(168.南殿・やしょめの寺)です。通り過ぎると、少し向うに三宝寺の塀(道案内Aの写真参照、ここをクリック)が見えます。
由  緒:タイトルの「鳴滝の妙見宮」は広大な三宝寺境内の最高所に在ります。以下の文では先ず三宝寺の歴史と本堂周辺の様子などを記述し、その後に「鳴滝の妙見宮」の説明に移ります。
三宝寺は、江戸時代初期の寛永5年(1628)、後水尾天皇が帰依していた日蓮宗の日護上人(注1参照、ここをクリック)のために、右大臣の今出川(菊亭)経季(注2参照、ここをクリック)と冷泉(今城)為尚(注3参照、ここをクリック)に命じて建立させた寺院です。「金映山妙護国院三寳寺」の山号・院号・寺号は後水尾天皇から賜ったと伝えられています。
日護上人の後を継いだ2祖の日英上人や3祖の日逞上人の頃には寺運が大いに栄えて塔頭寺院も12ヶ寺を数えたと寺伝に謳われています。しかし、江戸時代中期の天明6年(1786)に発行された都名所図会再販本には本堂と厨のみが描かれており、塔頭寺院等は見当たりません。(図絵1・図絵2参照、ここをクリック)何らかの事情によって寺運が傾いた時期なのかと存じます。特に明治維新後はスポンサーと言うべき立場の公家が東京へ去ったなどの関係で更に衰微荒廃しました。その後、昭和4年には昭和天皇即位式に使用された建物の一部下賜を受けて移築し本堂としました。更には妙見宮の改築や大黒堂の再建を果たして寺観を整え、日蓮宗の中本山として現在に至っています。
境内@Aの写真に示す門(ここをクリック)を入ると、正面に並ぶ建物は向かって左が庫裏で右は本堂です。昭和56年に宗祖日蓮大聖人の700年遠忌に際して、増改築等の大修理が行われました。
庫裏の前庭に植えられた「車返しの桜」(境内BCの写真参照、ここをクリック)は、京都御所に在った菊亭家邸内より宝暦年間(1751〜1764)に根分け移植された名桜です。御所内の「車返しの桜」とは、その開花時のあまりの美しさに時の帝が一旦通り過ぎられた後に牛車を引き返させて御覧になったとの由緒が伝えられるものです。
本堂(境内Dの写真参照、ここをクリック)内には日蓮宗の宗宝として日蓮大聖人、日朗上人(注4参照、ここをクリック)、日像上人(注5参照、ここをクリック)の真骨を奉安し、開山者の日護上人が制作した釈迦如来像、多宝如来像、日蓮大聖人像、鬼子母神像などが祀られています。
本堂前から井戸の覆い屋、浄行堂、茶室松宝庵などを左右に見ながら進んで行きますと、正面に石段が待ち構えています。「洛陽十二支 戌 妙見大菩薩」と記した幟が賑やかに立ち、「鳴滝の妙見宮」への参道だと判ります。(境内E〜Hの写真参照、ここをクリック)
「鳴滝の妙見宮」までは少し距離が有りますが、途中に存在するお堂などに立ち寄りながら歩を進めれば、あまり苦にせずに登り着けるでしょう。(境内I〜Qの写真参照、ここをクリック)
江戸時代の中期頃に、京都に洛陽十二支妙見という巡拝信仰の寺院組織が作られました。御所内の紫宸殿を中心に十二支の方角に祀られた妙見宮で構成され、これらを巡って寿福・開運・厄除を祈願するもので特に庶民の間で信仰されて栄えました。
その後、一時は巡拝信仰が廃絶した時期も有りましたが、昭和61年に「洛陽十二支妙見会」が発足し多くの巡拝者を迎えるに至りました。
「妙見宮」という名で呼ばれる宗教施設は神社形式の建物が多いのですが、そこに祀られるのは仏教の妙見菩薩です。妙見菩薩は、北極星・北斗七星を神格化した中国の思想を仏法教義に取り入れて創出された尊格で、諸星の王として宇宙万物の運気を司どり支配します。日本では主として日蓮宗系の寺院で祀られています。
こちらの妙見宮は日護上人自作の像を祀り、信仰する人の願いを満たしてくれるところから「満願妙見大菩薩」と称され、十二支妙見めぐりの一つ「鳴滝の妙見宮」の通称で親しまれました。特に戌歳生まれの人の守護神として、また戌が安産に通じるところから安産祈願所としても有名です。 (「洛陽十二支妙見めぐり」のサイトも参照してください、ここをクリック)
妙見宮から下山する途中で道標(境内Rの写真参照、ここをクリック)に従って左(東)の谷へ降りますと、「山田宗Hen3 四方庵居之地」の石碑(境内Sの写真参照、ここをクリック)が建っています。
茶道宗Hen3流の流祖山田宗Hen3(注6参照、ここをクリック)は、25歳という若年の時に境内の東の谷に在った塔頭「凉池院」に住し、茶室「四方庵」で茶道に専念し奥義を究めました。その「四方庵」旧跡に現在の宗Hen3流家元によって記念碑が建てられたのです。
Hen3は元禄10年(1697)に江戸へ下り本所に居を構えて宗Hen3流を興します。「赤穂浪士」の敵役となる吉良上野介義央の本所邸が偶然にも近所であったので、度々出入りして茶会に参画しており、赤穂浪士の大高源吾も宗Hen3の弟子であったため、吉良邸茶会の日取りを宗Hen3から訊き出して、討ち入りの日を定めるのに貢献したと伝わっています。
三宝寺の年中行事として著名なものに「日蓮大聖人遠忌 報恩法要 御会式(おえしき)」と、これに伴う「日蓮宗の大根焚」があります。「御会式」は日蓮大聖人を偲び讃える法要で日蓮大聖人、日朗上人、日像上人の真骨(日蓮宗宗宝)を御開帳し、今年一年の罪汚れを落とす厄落としの祈祷がなされます。御会式は、通常12月第1日曜日に厳修されています。(ただし、12月1日が第1日曜日である年には第2日曜日に変更されると聞いております。詳しくは三宝寺へお問い合わせください。)「大根焚(大根焚@〜Dの写真参照、ここをクリック)」は御会式の当日と前日に行われます。

注1:日護上人:生没年は不詳ですが、丹波国与謝郡の生まれで、下総国の飯高寺に設けられていた檀林(日蓮宗の僧侶養成所)で学びました。仏像彫刻者として著名な人で、本文に記述しましたように三宝寺の諸像を制作していますが、比較的若い時期の作品です。また、70.元政庵(瑞光寺)の本堂(寂音堂)に安置されている本尊釈迦如来坐像も日護上人が彫刻しました。その作品と伝えられている像は関東地方から中国地方に至る諸処に現存します。例えば日蓮宗総本山身延山久遠寺の丈六堂に安置されている釈迦如来立像は寛永20年(1643)に造立したものですが、像高1丈6尺(実高5.58m)の巨像で彼の作品中で代表的なものです。後年には紀州藩の藩祖徳川頼宣に招かれ、正保4年(1647)に和歌山へ移住して多数の仏像を制作しています。由緒へ戻る
注2:今出川(菊亭)経季(つねすえ):今出川(菊亭)家は「清華家」と称する家格を持つ公家の家柄です。いわゆる「五摂家(近衛 ・ 九条 ・ 二条 ・ 一条 ・ 鷹司 )」のように摂政・関白の地位には昇れませんが、太政大臣までは昇進可能です。(実際には左大臣までしか昇った人が居ませんが…)西園寺家から分家した初代兼季の邸宅が今出川の辺りに営まれたために「今出川家」と呼ばれたのです。また、兼季は菊の花を愛で邸宅に咲かせたところから「菊亭右大臣」と呼ばれ、「菊亭家」の俗称が生じました。子孫の人達は、その地位が大納言以下の場合は「菊亭」を称し、大臣に昇ると「今出川」の称号に変えたのだそうです。なお、明治以後に華族(侯爵)となった後裔は「菊亭」という姓を称しています。
経季(1594〜1652)は14代目の当主で、三宝寺創建時には右大臣でしたから「今出川」を名乗っていたのでしょう。由緒へ戻る
注3:冷泉(今城)為尚(ためなお):冷泉家の家系を遡りますと、平安時代後期に摂政・関白の地位まで昇った藤原師実(1042〜1101)の次男家忠(1062〜1136)が分家して興した花山家、そこから更に分家した中山家となります。中山家14代目の親綱(1544〜1598)の次男として生まれた為親(生年不詳〜1610)は分家して冷泉の姓を称しました。為尚(1604〜1662)は為親の子で冷泉家2代目に当たります。この家の家格は「羽林家」です。「羽林」とは唐の国において皇帝を親衛する近衛の官名です。日本でも近衛府の別称(唐名)となりました。すなわち「羽林家」は武官の家柄です。近衛少将・中将に任じられると共に、参議から中納言、最高は大納言まで昇任出来ます。初代の冷泉為親は従四位下右近衛少将に止まりましたが、子の為尚は従二位権中納言まで昇任しました。3代目の定淳(1635〜1689)は今城と改姓したので中山流の冷泉家は2代で終わったのです。今城家は御所内(梨木神社の西側)に邸宅を構えましたが、明治維新後は東京へ移って華族に列し子爵となりました。
なお、現代において「冷泉家」と言えば、京都市上京区今出川通烏丸東入ルの地に現存し、非公開文化財特別拝観などのチャンスに入ることが出来る重要文化財「冷泉家住宅」を想起しますが、こちらの冷泉家は歌人として著名な藤原俊成・定家父子を遠祖とする「和歌の家」です。従って冷泉為尚とは別の系譜です。由緒へ戻る
注4:日朗上人(1245〜1320):日蓮聖人が亡くなる前に後継者として指名した六老僧の一人です。日蓮は文応元年(1260)に立正安国論を著わして、幕府当局や自宗派以外の仏教に対して容赦のない批判を浴びせかけました。その結果、日蓮は捕縛されて伊豆国へ流罪となりますが、日朗も師に随行したいと幕府役人に強要して怒りをかい右肘を折られて生涯不自由な体になってしまいました。
本稿の三宝寺が大本山と仰いでいる池上本門寺(所在地:東京都大田区池上1丁目)は日朗が伽藍創建に携わったとされています。由緒へ戻る
注5:日像上人(1269〜1342):僧となった当初には上記の日朗に従いましたが、その後に日蓮の直弟子となり「経一丸」という名を与えられました。日蓮が亡くなる際には京都での布教を遺言されて実行しました。朝廷から三度に及ぶ洛内追放の処分を受けながらも、洛外で諸宗の寺院住職と宗論を競い折伏して日蓮宗に改宗せしめ《69.七面山(宝塔寺)参照》、遂には勅許を得て洛内に妙顕寺を創建しました。日蓮や六老僧の時代には地方の一宗教に過ぎなかった日蓮宗を、中央でも信仰される大宗教に発展させた功労者として、特に京都所在の日蓮宗寺院では尊崇されているようです。由緒へ戻る
注6:山田宗Hen3寛永4年(1627)に東本願寺の末寺である長徳寺の住職の子として京都で生まれました。一旦は長徳寺の住職を継ぎましたが茶道を志して還俗し、母方の山田姓を名乗ったのです。正保元年(1644)18歳で千宗旦に弟子入りし、承応元年(1652)宗旦から皆伝を受けて本文記載のとおり鳴滝の三宝寺に茶室「四方庵」を建てました。明暦元年(1655)には宗旦の推薦により三河国吉田藩(愛知県豊橋市)の小笠原壱岐守忠知に仕えて茶道を掌りました。元禄10年(1697)になると吉田藩を致仕して江戸へ下り宗Hen3流の茶道を興したのですが、赤穂浪士討ち入りに関連するエピソードは本文記載のとおりです。宝永5年(1708)江戸で亡くなりました。享年82歳でした。由緒へ戻る

(上図に掲載した通称寺:こちらをクリックしてご覧ください→) 168.南殿・やしょめの寺

(参考記事1:右記は何れも「大根焚き」が催される通称寺です。こちらをクリックしてご覧ください→) 43.大根焚寺 33.千本釈迦堂

(参考記事2:当寺以外の洛陽十二支妙見:何れも「通称寺」の範疇に入りますので、未作成のものについては追って紹介していく心算です。)
子:137.西陣の妙見宮(善行院)、丑:本満寺の妙見宮(本満寺)、寅:修学院の妙見さん(道入寺)、卯:169.谷の御所・鹿ヶ谷の妙見さん(霊鑑寺)、辰:岡崎の妙見さん(満願寺)、巳:清水の鎮宅妙見宮(日體寺)、午:165.大手筋の妙見さん(本教寺)、未:未の方の妙見さん(法華寺)、申:島原の妙見さん(慈雲寺)、酉小倉山の妙見宮(常寂光寺)、亥:153.岩戸妙見宮(圓成寺)
04401 道案内@:京都市街地からバスで来た場合には、バス停から更にバス進行方向へ歩きましょう。三寶橋を渡り右側に注意しながら行くと、やがて石標や看板が賑やかに立ち並ぶ地点に達します。ここを右折して坂道を登ってください。道案内へ戻る
04404 境内@:巨大な山門が立ちはだかるのではなくて、静かな山寺の雰囲気が漂います。訪れた時期が秋ならば境内一帯は紅葉で彩られています。
04406 境内B:門を入れば左前方に見える庫裏の前庭に“車返し”と呼ばれた名桜が移植されています。

04408 境内D:手入の行き届いた庭園の一角に本堂が在ります。外見は古びて見えますが内部は改装されています。由緒へ戻る
04410_2 境内F:境内Eの井戸覆い屋の右側には浄行堂が隣接しています。堂内に祀られている石仏は、日蓮宗寺院では定番とも言うべき浄行菩薩像です。水かけ地蔵としての信仰も有るようです。
04412 境内H:境内Gの松宝庵を右側に見送って通り過ぎますと、進行方向に見える石段が「鳴滝の妙見宮」参道です。石鳥居には「妙見宮」と記した扁額が懸かっています。
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04414 境内J:境内Hの石段を登りきった所の、右側に在るのが「忍辱の鐘」です。三宝寺第3世住職日逞上人が洛内の本法寺から譲り受けた鐘で本法寺開山の日親上人作と伝わっています。日親上人は強引な布教を咎められ灼熱した鍋を被せられて拷問を受けても説法を続けたとの伝説が生まれ、後世には「鍋被り上人」と称賛されました。仏教用語で言えば「忍辱=侮辱や苦しみを耐え忍び心を動かさないこと」を貫かれたので、この鐘にも伝説的呼称が生まれたのでしょう。
04416 境内L:再び石段を登りますと最初に左側に現れるのが「三十番神堂」です。「三十番神」とは「神は日替わりで仏を守護する。(つまり神は仏のガードマンで、1日交代で勤務する。)」との考え方に基づいて最澄が比叡山に祀ったのを嚆矢とします。後世には日蓮宗が布教に利用したので、今日でも日蓮宗の多くの寺院に祭祀されています。その神々の名は伊勢大明神(天照大神)、石清水大明神、賀茂大明神、松尾大明神などなど、有名どころがズラリと名を連ねて居られます。
04418 境内N:境内Mの大黒堂付近、石段右側には「最上稲荷殿」と表示された小さな社が建っています。「大黒福寿尊天の眷族で商売繁盛、五穀豊穣を成就し、屋敷を守る法華経の守護神」と説明板に書いてありました。岡山市に所在する最上稲荷は日本三大稲荷に数えられるほど有名ですから、(何処を「三大稲荷」と呼ぶかについては、幾つかの考え方が有りますが…)三宝寺の稲荷神も岡山から勧請されたのか?と思います。








04420 境内P:境内Oの供養塔斜め上、石段の右側に方位盤の台座上に載った犬の像が据えられています。傍らの看板に「子宝犬」縁起が記してあり、平成6年の甲戌の歳に際して奉納されたものだそうです。方位盤は磁石の逆に作られており、刻まれている干支の前に立てば、その方向に向き合います。例えば「子」の前に立てば「子」の方向すなわち「北」に面します。この「子宝犬」は参詣者の魔を払い、「ここ掘れワンワン」と福を招いてくれるのだそうです。

04422 境内R:妙見宮からの石段を戻る途中で、三十番神堂付近を歩きながら左側に注意していると、写真のような立札を見付ける事が出来る筈です。立札には「茶道宗Hen4流 山田宗Hen4四方庵 旧蹟」と書いています。←の示す方向に小道を辿って谷間へ降りて行きましょう。由緒へ戻る
04424 大根焚@:以下の写真は、平成19年12月20日に催行された「日蓮大聖人遠忌報恩法要御会式」の当日、「日蓮宗の大根焚」の様子です。このような大鍋で大根が湯気を立てて沸々と煮られていました。
04426 大根焚B:大根焚の主役は奉仕の御婦人方です。
04428 大根焚D:「日蓮宗の大根焚・ゆず御飯」のセットを客殿で賞味しました。 由緒へ戻る
04402 道案内A:順興寺前を通過し、更に坂道を上ると前方に白い塀が現れます。そこから先は目指す三宝寺境内になります。道案内へ戻る 図絵Aへ戻る


04405 境内A:春には参道脇の枝垂れ桜が咲き誇ります。由緒へ戻る
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04407 境内C:開花時の“車返しの桜”は現代も美しさを誇ります。。平安朝の帝ならずとも引き返して見たくなりそうですね。由緒へ戻る
04409 境内E:本堂右前の古井戸の覆い屋に、奉納された福だるまが並べられ微笑ましい風景を醸し出していました。
04411 境内G:境内Fの写真に示した浄行堂に対して斜め向い側に、茶室の「松宝庵」が瀟洒な姿を見せますが、平生は門扉が閉じられています。

04413 境内I:境内Hの石段を登る途中、左側に現れるのが「千躰佛釈迦堂」です。堂内の中央には6尺の釈迦如来座像を安置して、その周囲には3寸の釈迦如来立像を千体配してあります。これらの像は全て開山者日護上人の作品であり、祈願すれば子宝を授かるとの御利益が謳われ世に「世継ぎの釈迦佛」と呼ばれています。図絵2へ戻る
04415 境内K:境内Jの「忍辱の鐘」の所で進路は概ね90度左折します。ご覧のように暫くは平坦な道になりますが、その先にはまたも石段が続いています。









04417 境内M:更に石段を上がった所の左側が「大黒堂」です。「大黒さん」としてお馴染の福徳を授けていただけるご利益の神、大黒福寿尊天像を祀ります。こちらの像は三面六臀という異形のもので、最澄が造像して日蓮聖人が比叡山で学ばれた際に開眼・入魂されたとの伝説を持っています。秘仏になっていて60年に1度の甲子の年(次回は西暦2044年)のみ開帳されます。なお、現存する大黒堂は、平成7年に再建されたものです。

04419 境内O:長かった石段登りも終点に近づき目標の妙見宮が間近になった辺りで左側を見ると、このような五輪塔まがいのものが建っています。傍らの説明板には「縁結びの塔  豊臣秀頼、国松丸、淀君の三方の供養塔である。いつの頃からか、此の塔を摩で(ナデ)さすれば良縁を得、早く縁づくことが出来ると言われる。」とご利益が謳われています。この供養塔は、三宝寺の創建者菊亭経季の正夫人である古奈姫が建立寄進したと言われています。古奈姫の実父氏家内膳正行広が、大坂城落城に際して秀頼や淀君と運命を共にして亡くなっている事、また、古奈姫が菊亭家へ嫁ぐに当たっては淀君の妹である初(常高院)の養女の資格で縁組みした事、などの理由で古奈姫が建てたと考えられているのです。
04421 境内Q:石段の最上段まで上がりきると、そこが妙見宮です。満願妙見大菩薩を祀りますが平生は拝観することはできません。江戸時代に創始された「洛陽十二支妙見」の中で戌の方位の運気を司るとして信仰を受け、十数に及ぶ講社の組織も結成されて盛大な威容を誇りました。天保年間(1830〜1844)には鳥居・石段・茶所・絵馬堂が整えられたそうです。現存する宮殿は昭和47年に宗祖日蓮大聖人の生誕750年を記念して新築されたものです。由緒へ戻る 図絵へ戻る
04423 境内S:谷間の小さな平地には「山田宗Hen4四方庵居之地」と刻んだ石碑が建立されていました。まだ新しそうなので裏面を調べると、「昭和乙酉十一月三日建之 後裔十世 山田宗Hen4」と刻字されており、昭和20年に宗Hen4流当代の幽々斎宗匠が建立された碑だと判りました。由緒へ戻る
04425 大根焚A:境内西隅の一角には、この画面で判る様に大鍋が幾つも並び、それぞれで大根が焚かれていました。


04427 大根焚C:こちらでパッキングされるのは「お持ち帰り用」の大根焚です。


















































































































































































































































































図絵1 Photo図絵2 Photo_2
右側の図絵1は都名所図会の巻之六に集録された「鳴瀧  般若寺 三宝寺」の図絵です。
(資料引用:国際日本文化研究センター 平安京都名所図会データベースから)
なお、「都名所図会」初版本は安永9年(1780)に刊行されたのですが、ここに引用した図絵は天明6年(1786)の再販本に掲載されたものです。
図絵1を見ますと右の頁全体と左の頁の右側1/4ぐらいに亘って般若寺の伽藍や鎮守などが描かれており、三宝寺は左頁の左側約半分のみを占めていて、当時は比較的小規模な寺院だった様子が窺われます。
図絵1の一部、三宝寺付近のみを拡大表示して右下の図絵2を作成しました。
図絵2に描かれている堂舎は、「三宝寺」と記名された本堂と、厨のみです。その下側には門が見えます。
この門は参道の末端に位置しており、道案内Aの写真に撮った塀
(ここをクリック)は、当時の門に連なっていた塀の名残だろうと察せられます。
そして、境内@Aの写真に示した現在の門と塀(ここをクリック)が当時は存在しなかったと推量しますと、本堂や厨が概ね現状どおりの場所に建っていた事が分明となります。
本堂に向かって右に山の尾根が描かれていて、これは現状と同様なのですが、尾根上は雲形でぼやかされていて、そこには何も描かれていません。
別ページに書かれている図絵の解説文を見ますと『三宝寺は西の山上にありて、日蓮宗なり、本堂は南向にして、釈迦堂は山上にあり、開基は日護上人とぞ。』と簡単な紹介がなされています。即ち「三宝寺は般若寺の西の山上に在って、日蓮宗である。本堂は南向きで、釈迦堂は本堂の場所よりも更に山の上に在る。開基は日護上人だという。」と書いていますので当時も釈迦堂は現在と同じ辺りに存在したようです。(境内HIの写真を参照、ここをクリック)
しかしながら妙見宮についての記述は全く為されていませんので、この図絵が出版された天明6年(1786)より更に後の年代になって「鳴滝の妙見宮」が創建され、日護上人が百数十年前に制作されていた「満願妙見大菩薩像」が、その宮殿へ祀られたということになります。そして境内Qの写真説明ここをクリック
に書いた如く、天保年間(1830〜1844)に最も隆盛となり石段や鳥居なども整備されて現在に至ったわけです。
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