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四方庵居之地」の石碑(境内Sの写真参照、ここをクリック)が建っています。
流の流祖山田宗
(注6参照、ここをクリック)は、25歳という若年の時に境内の東の谷に在った塔頭「凉池院」に住し、茶室「四方庵」で茶道に専念し奥義を究めました。その「四方庵」旧跡に現在の宗
流家元によって記念碑が建てられたのです。
は元禄10年(1697)に江戸へ下り本所に居を構えて宗
流を興します。「赤穂浪士」の敵役となる吉良上野介義央の本所邸が偶然にも近所であったので、度々出入りして茶会に参画しており、赤穂浪士の大高源吾も宗
の弟子であったため、吉良邸茶会の日取りを宗
から訊き出して、討ち入りの日を定めるのに貢献したと伝わっています。
:寛永4年(1627)に東本願寺の末寺である長徳寺の住職の子として京都で生まれました。一旦は長徳寺の住職を継ぎましたが茶道を志して還俗し、母方の山田姓を名乗ったのです。正保元年(1644)18歳で千宗旦に弟子入りし、承応元年(1652)宗旦から皆伝を受けて本文記載のとおり鳴滝の三宝寺に茶室「四方庵」を建てました。明暦元年(1655)には宗旦の推薦により三河国吉田藩(愛知県豊橋市)の小笠原壱岐守忠知に仕えて茶道を掌りました。元禄10年(1697)になると吉田藩を致仕して江戸へ下り宗
流の茶道を興したのですが、赤穂浪士討ち入りに関連するエピソードは本文記載のとおりです。宝永5年(1708)江戸で亡くなりました。享年82歳でした。由緒へ戻る| 最初へ戻る | 目次へ戻る | 43.大根焚寺へ戻る | 45.うっさんへ進む |
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